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あの夜の祈り

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泥のように重い心と体を引き摺って部屋に戻ったとき、朝方に布団を畳む手間を惜しんだ自分に心底感謝した。
電気をつけもせず、互いに無言でそれぞれの寝床に倒れ込んで、オレたちはそのまま暫くピクリとも動けなくなる。
虚脱。そうとしか表現しようのないゲル状の空白が圧し掛かっているみたいだった。
腕から、脚から、オレが再び立ち上がるために必要な全ての気力を搾り出していく一方で、肺へと潜り込んでくるそいつが呼吸を難しくさせる。

心拍と同じリズムで鈍痛を刻む両脚、全身に染み付いた薬品の臭い。
ガチガチに強張った手のひら。
夏も近いのに、油断すれば風邪を引き込みそうな山中の薄ら寒さ。
何もかもが今はどうでもいい。


負けた。


オレの頭を占めているのは、ただその一言だけだった。
合宿の最後の一日にすることはもうないし、田所さんと一緒に総北の名前を背負って走ることもない。

脳味噌の変わりに鉛が詰め込まれてでもいるのかと疑いたくなる頭を、のろのろと巡らせて黒い窓を見やる。
外で月がいくつも瞬いていると思ったらそれはどこか窓の向こう側で頼りなく光を放つ丸い蛍光灯の、寿命が尽きかけてチラチラと明滅しているのだった。

自分の大腿を殴りつけ罵る手嶋の悲鳴や、二人分の体重を支えて揺らぐことのなかった田所さんの涙が。
コースに叩き付けられて無残な擦り傷だらけになった愛車の姿が、蛍光灯の放つ不揃いなリズムと共に浮かんでは消えて、……。


……負けた。オレは、オレたちは。


限界を越えた疲労に沈む体が心を鈍化させているんだろうか。それともあの周回コースが今はもう夜に沈んで、どんなに頑張っても窓の向こうに見つけることができないせいか。
元からあまり良くない頭の回転はますます遅く、負けた、と、幾度その事実を反芻してみても、それはあのゴールの瞬間ほどにはもうオレを打ちのめさないようだった。

……きっとそれも今だけのことで、明日になれば……走り続ける一年たちを見てしまえば、また胃の奥に暗い痛みは凝るんだろう。二年生の面子にかけて今日以上の醜態など彼らの前で晒すつもりはないが、自分の不甲斐なさが産んだ傷は消えない。

黒い窓の外に星はなかった。外の空気は今日も山らしく澄んでいたはずだから、風が雲を運んで来たのか。
指先一つ動かすのも億劫なほど疲れ果てているのにそんなことを考えていると妙に寝付けず、隣の布団に横たわる手嶋のことをふと思った。世界で唯一同じ傷を負った相棒に、今、何か話しておきたいことが……この夜でなければ話せないことがあるような気がして、けれど、わからない。

自分の脳味噌の容量がそう多くないのを言い訳にして、考えても仕方のないことは考えないようにしてきた。必要なときに必要な言葉が出てこないこんな報いを、今、受けるとわかっていたならもう少し頭を動かす訓練でもしておくべきだったかもしれない。手嶋、と名前を呼びたくても、その後に繋ぐ言葉が見つからなかった。

「……寝たか、青八木」

ぽそり、と。
明かりのない室内の空気を、揺らすその声は……だからオレにとってはあんまり都合の良すぎるタイミングで。
幻聴、錯覚、そんな言葉を疑いながら、視界の外の気配を探った。
見えない位置にいる相手の体が布団の上で身じろぎする微かな音。その音がこちらの様子を伺う意図を持っていたかどうかなんて、普通ならいくら耳をそばだてたところで区別できるわけもないんだが、ああ、まさかこんな時に、一年かけて練り上げたチームワークの成果を感じることになるなんて。

答えの変わりに、星の見えない窓から視線を外して手嶋のいる方へ体を向ける。手嶋曰く、眠っているときは「寝ているのかどうか」どころか「生きているのかどうか」さえ疑問に思うほど微動だにしないらしいオレの、意識が今この場にあると示すにはそれで充分なはずだった。

横たわった世界の薄闇、真っ先に見えたのは僅かな光を反射する手嶋の両目。猫みたいだとオレは場違いな感想を抱いて、何度か目を瞬かせた。どこか空ろな表情と眼差しをオレに向けたまま、手嶋はしばらく言葉を継がないでいる。

「……すまない」
「…………手嶋?」
「すまない、……すまなかった」

オレが。

多分そう言おうとして、声を詰まらせた手嶋の顔が歪んだ。
歪んだまま、縋りつくようにオレを見る。そこにあるのは、一年坊主たちや先輩方の前で見せた純粋な絶望の色じゃなかった。……もっと別の、もっと耐え難い何か。手嶋の顔にべったりと張り付いて剥がれないその感情を、オレは確かに知っている。
知っているのに、……それは何という名前で呼ばれるべきものだったか。

「てし、」
「あいつらを、一年を、……小野田を。侮った。軽く見てた。オレの、せいだ」
「……手嶋……?」

思い出せない、のに。
すまない。ただそう繰り返す手嶋のことをオレは。
何故かひどく、……不快で。

「お前まで巻き込んで、インハイどころか脚を壊して、」

やめろ、と呟いた。

やめてくれ。
オレの言葉は声にならず、手嶋の喉から吐き出されるものは止まらない。

やめろ。
今度はどうにか搾り出した、けれど、手嶋には、届かない。

「油断した。……油断してたんだ。小野田が、アイツがこの何ヶ月でどれだけ成長したかなんてわかってた。今泉より鳴子より、注意しなくちゃいけないのはアイツだった。わかってたのに、危機感が足りなかった。オレの……!」
「やめろ!」
「……っ」

気づけば、思った以上の怒声でオレは、手嶋の声を遮っていた。
大声を出すのに慣れていない喉が、疲労の果てに生み出せるボリュームなんてたかが知れている。それでも。両隣の部屋では一年と三年がそれぞれ貴重な休息の時間を過ごしているはずで、騒ぎ立てるなんてもっての他だとわかっていて、それでも。

気圧されて、と言うよりもオレの大声に単純に驚いたのだろう、竦む手嶋の襟首に手を伸ばす。立ち上がるのも億劫なので布団に寝そべったまま、傍から見ればさぞ間抜けな図だろうと頭の隅で思いながら……指先が、震えているのはこれは、もうこれ以上働かせるなと体が文句をつけているのか、慣れない感情の暴発が招いたものか。

どっちでもいい。
動くなら、動け。

「……る、な」

勝てたはずの勝負だ。
手嶋が言わんとしているのは、つまりそういうことだった。

あと少し。ほんの少し、自分が小野田坂道を警戒していれば。無酸素状態の高回転クライムから、逃げ切ったなどと安心して速度を緩めたりなどしなければ。二人分の脚を、一年にわたって動かし続けた頭が間違えた……油断と慢心、それさえなければ。そう、手嶋は言って自分を責めている。――畜生。

黒くて熱い塊が。
胃袋を食い破りそうだ。

「手嶋は、俺の、チームメイトだ」

暗闇に手嶋の輪郭が掠れる。それが我慢ならなくてオレは襟首を掴んだ手を引き寄せる。
互いの呼吸が顔にかかりそうな距離まで、手嶋とオレの上半身が同じ距離だけ敷布団の上を移動して、シャツとシーツの擦れる音がしんとした部屋にやけに響いた。

射竦められた表情のまま、手嶋の唇が少し震える。
零れ落ちる寸前の涙を留めようとするあの瞬間に、よく似た痙攣のしかただった。
作品名:あの夜の祈り 作家名:蓑虫