幻影桜花
ひらり、ひらりと舞い散る桃色の花弁。
風に流されあたり一面を淡いピンク色に染め上げる。その中で袴を着た少年が一人、舞う。手に持つは新刀。銀色に輝く白刃は少年が動くたび滑らかな曲線を描き、空気を揺らす。鋭い刃は清廉でいて厳か。
少年は一人静かに舞い続ける。刀を振り下ろすたび、空気が揺れ、淀みが浄化されてゆく。西、東、南、北――。すべての方角に向い頭上に掲げた刃を地に向け振り下ろす。
「さすが、雪男だな」
舞い続ける少年を見つめる人影があった。山桜の枝の上、幹に背を預けながら微笑みを浮かべる。舞が終わると同時に辺りの空気がピンと張りつめたのを肌で感じ少年はほっと息を吐いた。今年もまた鎮守の森であるここに新たな結界を張ることが出来た。そして桜の木の上から飛び降りる。降り立った水干を纏った少年は袴を纏った少年――雪男の前で止まると、にこりと微笑む。青みがかった漆黒の髪と青い瞳はどこまでも澄み切っている。今年十五となる雪男と同じ、いやそれよりも幼く見える少年。だが、彼は人ではない。この神社一帯護る山桜の神である。それが彼の正体である。名を燐と言うがそれは真名ではない。
「――ひさしぶりだな、雪男。少しみてねぇ内にえらくでかくなったな!」
「そんなこと、ありませんよ」
切れが悪い返答に彼は青い瞳を丸くさせると、けらけらと笑いだした。
「なに他人行儀なセリフこいてんだよ!俺のことは“燐”って呼べって言ったろ?それに崇め立てられたりするのって苦手なんだよ。神様って呼ばれても、ただの古い一族の末裔ってだけで何にもできねえしな」
風に流された黒髪が彼の頬を掠める。視線の先は鎮守の森から覗く小さな街並みである。その横顔は憂いに満ちている気がして。どこか消えてしまいそうなほど儚く見え、雪男はとっさに彼の名を呼んでいた。
“――燐”と。
呼んだ瞬間、彼ははっと雪男を見上げ、そして、微笑んだ。舞い散る桜に負けぬほど鮮やかに。その笑みが心の奥に深く深く焼きつく。
【蒼く煌く光の如く凛と佇み人々を導きたまえ】
その名の通り、彼は眩い光そのものだと雪男は思う。眩しすぎて、直視することが出来ない。
蒼凛子(そうりんし)――それが彼の真名。誰も知らぬ神名を読むことの出来ぬ者しか知りえぬ真実の名。
「ありがとうな、雪男。今年も無事結界を張ることが出来た」
雪男の生まれた家系が代々守り続ける神社。その裏手にある山桜を中心として張られる結果は、毎年直系の男子によって執り行われる。舞はこの神社を護る神への感謝の言葉であり、使う刀は宝物として神社に奉納されている「倶利伽羅」と呼ばれる名刀である。人を切るために作られたものではなく、魔を切るために作られたそれは常に清浄な空気を作り出すという。作り上げられた刀に力を込めたのがあの山桜の化身だ。雪男がはじめてこの「倶利伽羅
に触れたとき、青く輝いたのを今でも鮮明に思い出せる。あれは、青い炎だった。青い炎は燃え上がる熱の中でも一番熱いとされるもの。けれど、「倶利伽羅」を抜いた雪男を包んだ青い炎は熱いどころか柔らかくそれでいて優しくもあった。その青い炎こそがこの神社が青鎮めと呼ばれる所以であると父――藤本獅郎は言った。遥か昔、この付近に現れた鬼を一瞬のうちに鎮めたのが山桜の化身――燐だと言われている。彼は人に襲いかかり、村を荒らす鬼を狩ることなく青い炎を纏い包み込んだという。それまで暴れ続けていた鬼はその炎により正気を戻し、自ら消えていったとこの神社の絵巻物では語れられている。それが事実であるのか、未だ持て雪男には分からないが、確かに「倶利伽羅」に宿る青い炎は優しかった。燐がにこりと微笑む。初めて逢った時から変わらぬ笑み。だが――。
「ううん、こちらこそ今年も見事な桜をありがとう」
雪男の胸の内に宿る想いは。
幼きころとはかけ離れたもの。白水干を纏った少年は人ではない。だが、雪男が恋焦がれ日々胸の内に反芻されるものもまた目の前の山桜の神に他ならないのだ。
******
『雪男、この神社には神様が住んでいらっしゃるんだよ』
遠い記憶の中、祖父が残した言葉がいつも心の奥に引っかかっていた。
その日のことは今でも鮮明に覚えている。あれは、祖父が亡くなった時のことだ。まだ肌寒い春の朝、祖父は静かに息を引き取った。なくなる数日前から続いていた春の嵐が嘘のように穏やかな朝だった。障子から漏れた眩しい光が差し込む中微かな微笑みを浮かべ、永遠の眠りについた。代々続く神社の宮司だった祖父はいつも笑顔を絶やさぬ明るい人だった。
葬儀も滞りなく終わり、懐かしい昔話に花を咲かす大人たちに飽きた雪男はひとりで神社に向かった。何故、そこに向かおうと思ったのか分からない。自然と足が向かっていたのだ。長い階段を上り、出迎えた鳥居をくぐる。そして見えた光景に息を飲んだ。神社を囲う桜が花開き満開に咲き誇っていたのだ。春だと言っても、いまだ冬の気配が濃く残る。桜の蕾も固く閉じたままであり、桜前線の便りも届いていない。それなのに神社一帯を桜が淡いピンク色に染め上げていたのだ。雪男はただ茫然とその光景を見つめていた。吹き抜ける風にそよぐ柔らかな花弁の波を。
微かに聞こえた鈴の音に導かれるように雪男は走り出した。神社の裏手。奥にあった一本の大きな大樹。白い柵に囲われ、静かに鎮座していた。幹に巻かれたしめ縄がゆらりと揺れた奥、その下に佇む人影に釘付けになった。真っ白な着物を纏い、両手を組んでいた。舞い散る花弁の中、一人空に向かって祈り続ける。その姿が胸に焼きついた。
「おら!起きろ、雪男!」
耳元で聞こえてきた声に急激に意識が覚醒する。同時に鳩尾に感じた衝撃に飛び起きる。目に飛び込んできたのはやたらと派手なピンク色の髪。反射的に顔を顰めていた。
「やっと起きたか」
腰に手を当て、ホットパンツにTシャツと言った代わり映えのしない姿でにやにやと笑いながら覗きこんできた。
姉――霧隠シュラは昨年結婚して家を出た筈だ。
「おはよう、姉さん。清々しいほどに強烈な起こし方をありがとう。お陰で目が冴えまくったよ
身体を起こし、傍に置いていた眼鏡に手を伸ばす。にっこりと微笑み言えば、満面の笑みが返ってきた。
「あ~ら、嫌だわ、雪男君。美人のお姉さまに起こしてもらえたからって、そんな笑顔を浮かべちゃって」
「とんでもない。お忙しいのにわざわざ起こしてくれて感謝してるよ。でも、いいの?こんなところで油を売っていて。義兄さんに飽きられちゃうよ?――あ、もしかして、もう離婚の危機?早いね。まあ、一年持ったんだから姉さんにしてみれば上出来だけど」
「あらあら、素晴らしいお世辞をありがとう。嬉しすぎてお姉ちゃん、困っちゃうわぁ
普段からはかけ離れた可愛らしい声で小首を傾げ覗きこんでくる。ぴくりとこめかみが引き攣った。そのまま無言でただ微笑み合う。
風に流されあたり一面を淡いピンク色に染め上げる。その中で袴を着た少年が一人、舞う。手に持つは新刀。銀色に輝く白刃は少年が動くたび滑らかな曲線を描き、空気を揺らす。鋭い刃は清廉でいて厳か。
少年は一人静かに舞い続ける。刀を振り下ろすたび、空気が揺れ、淀みが浄化されてゆく。西、東、南、北――。すべての方角に向い頭上に掲げた刃を地に向け振り下ろす。
「さすが、雪男だな」
舞い続ける少年を見つめる人影があった。山桜の枝の上、幹に背を預けながら微笑みを浮かべる。舞が終わると同時に辺りの空気がピンと張りつめたのを肌で感じ少年はほっと息を吐いた。今年もまた鎮守の森であるここに新たな結界を張ることが出来た。そして桜の木の上から飛び降りる。降り立った水干を纏った少年は袴を纏った少年――雪男の前で止まると、にこりと微笑む。青みがかった漆黒の髪と青い瞳はどこまでも澄み切っている。今年十五となる雪男と同じ、いやそれよりも幼く見える少年。だが、彼は人ではない。この神社一帯護る山桜の神である。それが彼の正体である。名を燐と言うがそれは真名ではない。
「――ひさしぶりだな、雪男。少しみてねぇ内にえらくでかくなったな!」
「そんなこと、ありませんよ」
切れが悪い返答に彼は青い瞳を丸くさせると、けらけらと笑いだした。
「なに他人行儀なセリフこいてんだよ!俺のことは“燐”って呼べって言ったろ?それに崇め立てられたりするのって苦手なんだよ。神様って呼ばれても、ただの古い一族の末裔ってだけで何にもできねえしな」
風に流された黒髪が彼の頬を掠める。視線の先は鎮守の森から覗く小さな街並みである。その横顔は憂いに満ちている気がして。どこか消えてしまいそうなほど儚く見え、雪男はとっさに彼の名を呼んでいた。
“――燐”と。
呼んだ瞬間、彼ははっと雪男を見上げ、そして、微笑んだ。舞い散る桜に負けぬほど鮮やかに。その笑みが心の奥に深く深く焼きつく。
【蒼く煌く光の如く凛と佇み人々を導きたまえ】
その名の通り、彼は眩い光そのものだと雪男は思う。眩しすぎて、直視することが出来ない。
蒼凛子(そうりんし)――それが彼の真名。誰も知らぬ神名を読むことの出来ぬ者しか知りえぬ真実の名。
「ありがとうな、雪男。今年も無事結界を張ることが出来た」
雪男の生まれた家系が代々守り続ける神社。その裏手にある山桜を中心として張られる結果は、毎年直系の男子によって執り行われる。舞はこの神社を護る神への感謝の言葉であり、使う刀は宝物として神社に奉納されている「倶利伽羅」と呼ばれる名刀である。人を切るために作られたものではなく、魔を切るために作られたそれは常に清浄な空気を作り出すという。作り上げられた刀に力を込めたのがあの山桜の化身だ。雪男がはじめてこの「倶利伽羅
に触れたとき、青く輝いたのを今でも鮮明に思い出せる。あれは、青い炎だった。青い炎は燃え上がる熱の中でも一番熱いとされるもの。けれど、「倶利伽羅」を抜いた雪男を包んだ青い炎は熱いどころか柔らかくそれでいて優しくもあった。その青い炎こそがこの神社が青鎮めと呼ばれる所以であると父――藤本獅郎は言った。遥か昔、この付近に現れた鬼を一瞬のうちに鎮めたのが山桜の化身――燐だと言われている。彼は人に襲いかかり、村を荒らす鬼を狩ることなく青い炎を纏い包み込んだという。それまで暴れ続けていた鬼はその炎により正気を戻し、自ら消えていったとこの神社の絵巻物では語れられている。それが事実であるのか、未だ持て雪男には分からないが、確かに「倶利伽羅」に宿る青い炎は優しかった。燐がにこりと微笑む。初めて逢った時から変わらぬ笑み。だが――。
「ううん、こちらこそ今年も見事な桜をありがとう」
雪男の胸の内に宿る想いは。
幼きころとはかけ離れたもの。白水干を纏った少年は人ではない。だが、雪男が恋焦がれ日々胸の内に反芻されるものもまた目の前の山桜の神に他ならないのだ。
******
『雪男、この神社には神様が住んでいらっしゃるんだよ』
遠い記憶の中、祖父が残した言葉がいつも心の奥に引っかかっていた。
その日のことは今でも鮮明に覚えている。あれは、祖父が亡くなった時のことだ。まだ肌寒い春の朝、祖父は静かに息を引き取った。なくなる数日前から続いていた春の嵐が嘘のように穏やかな朝だった。障子から漏れた眩しい光が差し込む中微かな微笑みを浮かべ、永遠の眠りについた。代々続く神社の宮司だった祖父はいつも笑顔を絶やさぬ明るい人だった。
葬儀も滞りなく終わり、懐かしい昔話に花を咲かす大人たちに飽きた雪男はひとりで神社に向かった。何故、そこに向かおうと思ったのか分からない。自然と足が向かっていたのだ。長い階段を上り、出迎えた鳥居をくぐる。そして見えた光景に息を飲んだ。神社を囲う桜が花開き満開に咲き誇っていたのだ。春だと言っても、いまだ冬の気配が濃く残る。桜の蕾も固く閉じたままであり、桜前線の便りも届いていない。それなのに神社一帯を桜が淡いピンク色に染め上げていたのだ。雪男はただ茫然とその光景を見つめていた。吹き抜ける風にそよぐ柔らかな花弁の波を。
微かに聞こえた鈴の音に導かれるように雪男は走り出した。神社の裏手。奥にあった一本の大きな大樹。白い柵に囲われ、静かに鎮座していた。幹に巻かれたしめ縄がゆらりと揺れた奥、その下に佇む人影に釘付けになった。真っ白な着物を纏い、両手を組んでいた。舞い散る花弁の中、一人空に向かって祈り続ける。その姿が胸に焼きついた。
「おら!起きろ、雪男!」
耳元で聞こえてきた声に急激に意識が覚醒する。同時に鳩尾に感じた衝撃に飛び起きる。目に飛び込んできたのはやたらと派手なピンク色の髪。反射的に顔を顰めていた。
「やっと起きたか」
腰に手を当て、ホットパンツにTシャツと言った代わり映えのしない姿でにやにやと笑いながら覗きこんできた。
姉――霧隠シュラは昨年結婚して家を出た筈だ。
「おはよう、姉さん。清々しいほどに強烈な起こし方をありがとう。お陰で目が冴えまくったよ
身体を起こし、傍に置いていた眼鏡に手を伸ばす。にっこりと微笑み言えば、満面の笑みが返ってきた。
「あ~ら、嫌だわ、雪男君。美人のお姉さまに起こしてもらえたからって、そんな笑顔を浮かべちゃって」
「とんでもない。お忙しいのにわざわざ起こしてくれて感謝してるよ。でも、いいの?こんなところで油を売っていて。義兄さんに飽きられちゃうよ?――あ、もしかして、もう離婚の危機?早いね。まあ、一年持ったんだから姉さんにしてみれば上出来だけど」
「あらあら、素晴らしいお世辞をありがとう。嬉しすぎてお姉ちゃん、困っちゃうわぁ
普段からはかけ離れた可愛らしい声で小首を傾げ覗きこんでくる。ぴくりとこめかみが引き攣った。そのまま無言でただ微笑み合う。