LOST ③ 前編
見上げた先にある太陽があまりに眩しくて掌で目を庇う様に覆ったが、それでも手を貫くほどの強烈な陽射しに、目を眇めて少しずらした視線で空を見た。薄い雲が漂うだけの青い空は、どこまでも広く木手の頭上に広がっている。
陽射しは肌が焦げるのではないかというほど強かった。空気は唯でさえ熱を孕んでいるのに、足元の地面からも熱が反射される所為で立っているだけで首筋や腕、足を伝い流れる汗が気持ち悪かった。風が吹くたびに揺れる髪の毛が額に張り付いて、鬱陶しく感じて何度も髪を掻き揚げる。
目の前に広がるのは、整備されたテニスコート。そのコートの中に木手は立っていた。
コートの周りには沢山の生徒や観客がひしめき合って、試合の様子を見守っている。
けれど、木手はこれを夢の中だと知っていた。
もう何度も繰り返し見たことのある夢。夢である証拠に土や草木、人といったもの全ての匂いが感じられなかった。そして何よりも夢であることを主張しているのがユニホームだ。現在の比嘉中レギュラーメンバーが来ている紫色のノースリーブではなく、特色のないありきたりなユニフォーム。それを身に着けているということは、今見ている夢は、一年生の時に出場した九州地区大会だ。それ以外に、夢に見るほど印象に残っている試合は数少ない。
程なくして聞こえてきた試合終了を告げる審判の声。
そして、沸き起こる歓声と拍手の中、木手は両手を強く握りこんだ。
それは比嘉中の負けが決定した瞬間だった。木手の試合が始まる前から、負け越していた為にそれは必然だったが、それでも改めて宣言された『負け』という結果が悔しくて仕方なかった。
試合後の両校の挨拶が終わり、顔を上げた先には勝利を喜ぶ姿が、隣を見返せば仕方なかったと諦めきったチームメイトの姿があった。
その姿に違和感を覚えながらネット際を離れる。そして、コートから出る間際に、観客達が囁く声が聞こえてきた。
『負けた対戦相手って何中?知ってる?』
『えーと……ほら、沖縄の……何だっけ?』
『さぁ?沖縄の学校なんて聞いたことねぇよ』
『弱小校かぁー?だったら勝って当然だよな~。見てるほうとしては、もうちょっと強いとこと当たってほしかったかも……』
『だよなぁ~。あんな試合見ててもつまんねぇし』
『あー!比嘉じゃない?毎年1、2回戦ですぐ負けてることじゃん』
『だっけ?興味ねーから覚えてねぇー』
耳を塞ぎたくなるような蔑みを含む言葉を、テニスラケットが折れるのではないかというほど強く握り締めてやり過ごす。足早にその場を去ろうとした木手に、無常で無神経な言葉が追い討ちをかけた。
『まぁ所詮、沖縄の学校なんてたかが知れてるだろ』
『だよね~!!』
『それ、言いすぎー。ひっどーいっ!あははっ!!』
耳障りな笑い声が耳を蝕む。
嘲笑と侮蔑と哀れみと、そんな見下した言葉の数々が遠慮もなく木手達に降り注ぐ。あまりの暴言に苛立ち、観客席に文句を言おうと進路を変えようとしたが、それに気がついた先輩に腕を掴まれて、無理やり引っ張られてチームメイト達がいる場所に連れてこられた。どうして引き止めたのかと、訴えるように睨み付ければ、『仕方ない』『本当のことだから』と弱気な言葉ばかりが返ってくる。
木手と同じ様に怒りを覚えた人はいないのかと、周りにいる他の先輩達やチームメイトを見回して愕然とした。
試合に負けたというのに、悔しがる素振りも見せず笑いながら話をしている。監督はとっくに姿を消して、試合の講評など一切なかった。部長達は一年に荷物をまとめさせながら雑談に興じている。
木手の中でずっと感じていた違和感が何なのかはっきりと分かった気がした。今まで沖縄で行われていた練習試合や公式試合に比嘉中は勝ち続けてきた。
けれど、そこまでだったのだ。
負けを受け入れているのではない。ただ、負けると始めから決め付けて諦めているのだ。だから、負けても何も思わないのだ。
振り返ってみれば、思い当たることは沢山あった。九州地区大会の出場が決まってからも、特に変わることのない練習メニュー。モチベーションの低さ。九州へ乗り入れる前日の旅行気分のような浮かれた態度。その全てが木手の中である答えに結びついた気がした。
これでは、馬鹿にされて当然だと思った。テニスに対しての情熱も真摯さも、何もかもが欠けていてどこにも見つけることができなかった。
試合に負けた悔しさ、弱小校と馬鹿にされる屈辱、そこから次の勝利へと繋げる為の向上心すら持たないレギュラーメンバー。
それに対して、不満も不信感も抱かないチームメイト達。
ただそこにいるだけの名ばかりの監督。
ここには、木手が望む未来は無いと分かってしまった。
きっと、このチームはこれ以上強くなることは無いのだと。
そこで、木手は夢から目が覚めた。
あまりに懐かして、辛く苦い夢だった。
何故、今更あんな過去の夢を見たのかと小さくため息を零す。まだ、部屋の中は真っ暗で、手探りで探し出した携帯を開き時刻を確認すれば、まだ朝までには何時間もあった。
もう一度、眠りに付く為に目を閉じたが、先ほど夢の中で行われていた観客達の会話が頭から離れなかった。『所詮、沖縄……』『弱小校……』そんな言葉ばかりが脳内を駆け巡る。
その言葉全てが悔しくて悲しくて。
だからこそ、比嘉中テニス部に沖縄武術の経験者を入部させようと決めた。
馬鹿にした人々を見返す為に、そして何より沖縄の力を全国へ示す為に。
比嘉の、ひいては沖縄の力を全国へ示す。その為に目指すのは全国大会優勝のみ。
そう、あの負けた日に木手はたった一人で誓った。
『強くなりたい』『勝ちたい』と本気で願い望んだ、木手にとって始まりの日だった。
***
2月に入れば沖縄地方の寒さは和らぎ、もう春の気配が訪れていた。帰宅途中の木手は、柔らかな風に混ざる春の香りを感じていた。外を歩いていれば、もう上着が必要ないほどの暖かさで、そういえば早咲きの緋寒桜が開花したとかさくら祭りが始まっているとか、ニュースキャスターが明るい声で話題にしていたのを聞いたような気がする。学校に咲く緋寒桜もそろそろ開花する頃だろう。ソメイヨシノの薄紅色とは違い、緋紅色の美しい鐘状の花をつけた木の下で、部員達と一緒に花見でもしようかと、ぼんやりと考えている所で家の前へと着いた。
玄関の扉を開けて「ただいま」と帰宅の挨拶をすれば、走る足音が聞こえてきた。妹が出迎えに来てくれているのだろうかと、靴を脱ぎながら思っていた所へ声がかかった。
「おかえり~木手~!」
予想外の声に靴を脱ぐ動作を止めて顔を上げれば、明るい声の持ち主である甲斐がニコニコと笑顔で木手を出迎えていた。一瞬で眉間に皺を寄せた木手に、相変わらずマイペースな笑顔を向けて「邪魔してるぜ~」とひらひらと手を振ってきた。甲斐とは幼馴染で、中学生になってからは家を行き来することはあまり無くなっていたが、こうして気まぐれに家へと来ることはそれほど珍しいことではなかった。
「ビックリした?」
「ええ、今日は迷子にならず来れた見たいですね。それで、どうかしましたか?」