LOST ③ 前編
艶っぽい甘さで見つめてくる瞳から目を逸らす事も出来ず、ただ少し困った表情のまま無言で見つめ返すしか出来なかった。平古場と同じ熱を持って見つめ返すことなど到底出来るはずもなく、けれど感謝の意を伝えてくる平古場を、払いのけるだけの理由も見つけられず困惑することしか出来なかった。
「ま、永四郎はわんがチョコ渡しても受け取ってくれないんだろうけど」
そんな困った様子を察知したのか、平古場は密着していた体を少しだけ離して、拗ねたような口調で肩に顎を乗せた。その所為で顔の向きが変わったため視線が逸らされて、平古場の瞳の拘束から抜け出せたことに胸を撫で下ろす。
「当然です。俺が受け取り拒否出来ない様なものを持ってきたらどうですか。まぁ、あるとは思えませんが……」
「やーが受け取るものかぁ……。そりゃ難しいな」
唇を尖らせながら考えこみだした平古場が、何だか拗ねた子供のようで思わずふっと笑みが零れた。その笑い声に導かれるように平古場がまた木手へと視線を移した。木手も、平古場とのいつもの距離感に気を抜いていて、平古場の瞳が先ほどとは違った鋭さと熱を持って見つめていることに気がつかなかった。
「えいしろう」
ただ、名前を呼ばれただけだった。
それなのに、周りの空気は一辺して濃密さを増した気がした。
息苦しいほどの甘ったるさを発しているのはもちろん平古場だった。木手は、その雰囲気に気圧される様に体を平古場から引くけれど、近くにはドアがある所為で思うように距離をとることが出来なかった。平古場は離れた分だけの距離を詰めてくるかと思ったが、半歩ほど離れた距離から近づくことは無く、背中をドアに預けた木手の正面に立つような位置で見つめてきた。
「えーしろう」
ゆっくりと、口の中で味わうように名前を呼ぶ声。
先ほどまでの愛しさだけを込めた声色とは違い、まるで毒を孕んだ甘さと、どこか陰鬱なまでの蠱惑的な響きを持って木手の体へと響いた。
それなのに、恐る恐るといった様子で木手の頬へと手を伸ばしてくる。その相反する姿に、どれが本当の平古場なのか分からなくなる。両手で包み込むように頬に触れられれば、反射的に避けるような動きになってしまった。けれど、焦ることなく平古場はもう一度、木手の頬を包み込むように触れた。
「これ以上は何もしない」
平古場は、怯えさせたい訳でも、怖がらせたい訳でもなかった。
けれど、そうな風に口では物分りのいい振りをしているが、心の奥底から湧き上がる感情を抑えるのに必死だった。
本当は、飢えて飢えて苦しい。
本当は触れた頬を引き寄せて、柔らかな唇を触れ合わせたい。薄く開いたその口の奥にある歯も舌も粘膜も、くまなく平古場の舌で絡めとればどんな味がするのだろうか。口内に広がる唾液を啜って、それをあますことなく喉を鳴らして飲み干してしまいたい。甘いのか、苦いのか、木手はどんな味で平古場の心を満たすのかと、そんなことばかりを考えてしまう。
もっと触れたい。もっと熱を交し合いたい。
どれほどの欲求を隠して触れているかなんて、きっと木手は知らない。
「こうして触れてても、やーはきっと何とも思ってないだろう?」
木手の眉間には皺がよっていたが、それが警戒しているからなのか、不愉快に思っているからなのかまでは判断がつかなかった。けれど、平古場が欲しいと思う感情は木手から引き出せていないことだけは分かる。
だから、知ってほしい。どうして、こんなにも嬉しいと思っているのかを。
分かってほしい。本当は何を求めて、何を欲しているのかを。
この不毛な想いが、どれほどの痛みを生み出すかなんてもうとっくに知っている。
けれど、それでも欲しいと願ったのは平古場自身だから。あの日から、もうとっくに覚悟は決まっている。
「わんは、すげー緊張する。……怖い。やーに嫌われそうで」
平古場は少しだけ空いていた木手との距離を詰めた。逸らすことなく見つめられる瞳の熱は、失われることなく木手へと注がれる。
「なぁ、伝わってる?わん、永四郎からチョコレート貰えて、でーじ嬉しかった」
ふわりと優しく笑顔を浮かべた。その笑顔に引き付けられて、木手は平古場の動きに反応し損ねた。そこからは流れる様な動作で、平古場は木手との距離を一気に詰めた。口の端に近い部分に軽く触れる程度のキスを落とし、離れる間際にわざとらしくリップ音を響かせた。
突然の出来事に、言葉も無くぽかんと呆けている木手の頬から手を放す。
「でも、俺が本当に欲しいのはもっと別のものだけどな……」
そう言って意味深に木手の唇を人差し指でゆっくりとなぞり、その指を平古場は舌を出してペロリと舐めた。
「あ、先に言っておくけどな!わんがいくら軽いからって、男にこんなことしたことねーからな!」
木手はその指から視線を外せず、少し照れた様子で微笑む平古場の笑顔をただ黙って見つめていた。
その時、予鈴が鳴り響きお互いに教室に向わなければならないことを思い出す。急いで、鞄を取って部室を出て行こうとする平古場から鍵を受け取る。どうせ、このままでは平古場がホームルームに間に合わない。それより木手が部長として管理しておけば、教師達には何とでも理由をつけて説明できる。
急いで部室を出て行く平古場の後ろ姿を見送って、木手は教室へ向うことはせず部室の壁にもたれかかった。正直このまま授業を受ける気分ではなかったし、受けても上の空なのは目に見えている。
平古場が最後に見せたはにかんだ様な笑みを思い出した。その意味がどうしても理解出来なくて、触れられた口の端の部分を指で触れた。
どうして、男同士なのにキスをしたのかも。
平古場が本当に欲しいものも。
人差し指で唇に触れたその意味も。
何もかもが分からなかった。
混乱した頭の片隅で、『違う』と心の中で声が聞こえた気がした。
本当は知っているのだ。平古場が木手へと向ける感情の意味を。
木手が分からないと思っているその全ての事柄は、たった一つの答えを示している。
大切で、特別で、愛しい。『好き』という感情。
けれど、それが分かった所で何が変わるというのか。『好き』という想いも言葉も、女子からしか言われたことはなかったし、木手自身も女子にしか言ったことはない。
いつもの木手なら、どう対処すべきかも、どう行動するかもすぐに答えがでるのに、このことに関してはまったくどうしていいのか分からなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、明確な答えが導きだせなかった。
木手は、眉間に皺を寄せ空中を睨みつけた。
そこにはもちろん答えなどなく、ただ見慣れた部室の天井があるだけだった。