LOST ③ 前編
平古場は、先ほど木手を掴んだ掌を見つめる。今、視線の先にいる甲斐が手を引いているような感情で、平古場が木手に触れることはきっとこの先ないだろう。この手が求めるものは、もっと利己的で直情的な欲を含んでいる。
見つめていた手を握り締めて、木手の熱を思い出す。
今はこれだけでいい。
そう自身に言い聞かせ、姉の手から荷物を受け取り店を出た。
***
バレンタイン前日から少しずつ、浮かれた空気が学校中に漂い始める。比嘉中はバレンタインに関しては特に学校からの規制などはなく、常識の範囲内であれば教師達からも何か言われることはなく、ましてやチョコレートを取り上げられることもない。だから、生徒達はこの一年に一度のイベントを肯定派も否定派も強く意識することになる。
比嘉中のテニス部も朝錬が始まる前から、どこか落ち着かない雰囲気を醸し出していた。けれど、部活が始まれば木手や早乙女がいる所為で、強制的に真剣に取り組むはめになる。何時もより激しい早乙女の暴言が、部員達にいつも以上の精神的疲労を蓄積させていた。その様子を見ながら、木手は丁度良かったかも知れないと心の中で呟いた。
朝錬が終わり、一年生を中心にレギュラー以外がコートの整備や片づけをしている中で、木手達レギュラーは簡単なミーティングを部室で行っていた。全員がどこか何時もよりも疲れた表情をしているのは、運動量よりも早乙女の数々の心無い言葉の所為なのは明白だった。
一度落ちたモチベーションを上げるのは中々難しい。それがメンタル的な原因であればあるほど。
だから、このピリピリとした痛々しいまでの空気を払拭させるには、昨日の内に作ったチョコレートを渡すには丁度いいタイミングだと思った。
「ミィーテングはここまでにしましょう。着替えて、遅刻しないように教室に行って下さい。それから最後に、これは俺からの部チョコです」
近くの机の上に持って来た紙袋を置き、中から丁寧にラッピングされた小さな箱を取り出した。一番最初に反応を示したのは勿論田二志で、木手の傍まで来て嬉しそうに「永四郎が作ったのか?」などと矢継ぎ早に質問を始める。知念や甲斐達も次々に受け取り、最後にぼんやりと壁に寄りかかっていた平古場へと部チョコを渡した。
「ほら、平古場クンもどうぞ。食べるのは家に帰ってからにして下さいね」
「ああ……にふぇーど、永四郎」
受け取るまでは呆けた様な顔をしていて、受け取った後も始めはどこか信じられないといった表情でチョコレートの箱を見つめていた。けれど、すぐに少しぎこちない笑顔を向けて感謝された。その様子が少し気になったが、授業開始までの朝の時間は短い。全て配り終えた後、木手も急いで着替えに取り掛かる。
「もっと喜ぶかと思っていたのに」と、どこか拍子抜けした気持ちが木手の中に芽生えていたけれど、ふと男同士でチョコレートを交換する様子を想像してみれば、やはり微妙に気持ちの悪さが拭いきれない。他のメンバーは概ね喜んでいたからいいかと、どこか自分を納得させながら、横目で平古場の様子を見れば、いつも通り甲斐達と話をしながら着替えている。
木手の中でどこか消化しきれない思いが巡るのに、それが何の原因かが分からない。一人、また一人と着替え終わったメンバーから部室を出て行く。甲斐が「あ、宿題してくんの忘れた!」などと騒ぎだして、急いで部室を出て行こうとする間際に、木手へとそっと声をかけた。
「凛と仲直りしろよ?」
以外とおせっかいだな、と思いながらも甲斐の手に今日の宿題のノートを手渡した。一瞬だけきょとんとした風に目を瞬かせて、次に何時もの人懐っこい笑みを浮かべて部室を飛び出した。その後ろ姿に小さくため息をつく。写すのに間に合うかどうか微妙な時間だし、少し甘やかし過ぎたかと思わなくも無かったが今回の件で心配をかけたお詫びのつもりだった。
「永四郎、鍵はわんが返しとく」
平古場はそう言いながら、知念に「後でな」と声をかけて鞄に教科書を詰め込んでいた。木手は最後に部室を見渡して、平古場に鍵を預けた。そのまま部室を出ようとした所で、後ろから小さな衝撃を受けた。
突然のことだったので、目の前にある扉にぶつかりそうになったが、反射的に手を突いて回避する。何だと思えば、平古場が後ろから抱きついていた。
すぐには言葉が出てこなくて、振り返って見下した先には肩に顔を埋めた平古場の頭しか見えない。ぐっと鳩尾の辺りに回された平古場の腕に力が篭った。
「……平古場クン、どうかしましたか?」
背中に張り付いたまま、何も言わない平古場に焦れて、木手は眉間に皺を寄せて回された手を軽く叩く。手を離せという合図に、平古場は拒否を示す様にさらに腕に力を込めた。
制服越しに感じる木手の体温が少し高い気がするのは部活の後だからだろうかと、そんなことを思いながらその肩に頬を寄せる。視線を少し上げれば、目の前には日に焼けた首筋がある。体に伝わる木手の体温と、少し甘く香る香水の匂いが相まって、その首筋に噛み付きたくなるような衝動が芽生えるが、何とかその浅ましい感情を押さえ込んで、今一番伝えたい言葉を口にする。
「チョコ、にふぇーど。……すげぇ、嬉しい」
束の間、木手の動きが止まったように感じられたが、平古場は気にすることなく先ほど腕を叩いた木手の手を握りこむ。回した腕はそのままに、もう少しだけこうしていたいと強く願った。
この体から溢れるほどの喜び全てが、触れあった部分から木手へと流れこんで欲しいと思った。そうすれば、木手が「理解できない」と言った感情が伝わる気がしたからだ。
「まぁ、わんだけにくれなかったのは不満だけどよ」
「当たり前でしょう」
呆れたようにため息をつくのが分かった。平古場は、それが何だか可笑しくて口元が自然と緩む。
「嘘だって。貰えると思ってなかったし……。ホント、すげー幸せ」
平古場は、木手の肩に額を甘える様に押しつける。擦り寄る様は猫のようで、その金色の毛並みがさらりと流れるのを、木手は目を細めて見つめていた。
「そこまで喜ぶことですか?ただの部チョコですよ」
「ふらー。こういうのは、物より気持ちが大事だろ?わんはその気持ちが、嬉しいんだよ」
顔を上げて至近距離で見つめてくる瞳は愛しさで溢れていた。見詰め合う距離が近すぎて離れたいと思うのに、足が床に張り付いたように動かない。平古場が拘束する腕は、木手が抵抗すれば簡単に外れるほどの強さでしかない。それが、逆に平古場の感情を強く伝えていた。きっと、離せと言えば簡単に外れるのに、その瞳が伝えてくる穏やかな熱は木手を不快な気持ちにさせないから振り払えない。じゃれ合っていると言える程度だから余計に。
平古場は何時だって、大切なモノを扱うように、そっと優しく触れてくる。大事にされていることが分かるから、逆らうのが案外難しくてタイミングを完全に失ってしまった。