LOST ③ 後編
授業が終わり、木手は委員会に行く為に教室を後にした。部活には遅れて出席することを甲斐には伝えてある。木手がいなければ、ダラダラと練習メニューをこなすであろう部員達の姿が思い浮んだが、今日は早乙女が練習を指導しにくるはずなので、そこまでは酷くならないだろうと思っていた。
だから、委員会に集中しいつもより終わるのに時間がかかってしまった。
それをこの後、木手は少しだけ悔やむことになる。
部活のピリピリとした空気は、まるで肌を静電気が這う様な感覚だった。その最たる原因は早乙女だ。珍しく、部活が始まってすぐの頃に姿を現して、特別メニューだなどと無理難題を強制してきた。
部員達がそれに大人しく従うのは木手の方針であり、目指す全国大会出場の為でもあった。
「ちっ、あのオヤジ何張り切ってんだよ。うぜぇな」
「木手がいないと思ったらこれだよ~」
「まだ永四郎は来ないのかよ……」
平古場は走り込みをしながら、たまたま近くに来ていた甲斐に声をかけた。サボっている素振りを見せれば、早乙女に何を言われるか分かったものではない。走るスピードは落とさず、横目で早乙女の姿を見れば一年生達を私欲の為だけに扱っている。その姿に苛立ちは募るばかりだった。
早乙女に意見でき、かつその言い分を論破できるのは部員の中では木手以外に存在しない。平古場や甲斐が反論しても、木手ほどの効果を得られた試しがなかった。
誰もが木手が来るのを今や遅しと待っていた。委員会に顔を出す程度だと聞いていたから、すぐに部活に来るだろうと思っていたが、なかなか姿を現す気配がなかった。
いつもの練習メニューである50キロメートル持久走、平古場や甲斐は最近になってやっと体が慣れてきたおかげで、完走するタイムを徐々に縮められていた。木手も3時間をきることを目標にしろと言っている程度で、そこまで強く強要することはなかった。それなのに、早乙女が1キロメートルを3分で走れと言い出した。
キロ3分は確かに、走ることが出来ないほど無理な時間ではない。けれど、それを50キロメートルずっと続けて走るとなると話は別だ。
平古場達が走るコースは決まっていて、大体1キロメートルのコースを周回するものだった。直線距離でもない、ましてや綺麗に整備された道でもないコースでキロ3分で走るのなんて無理に決まっている。走れたとしても、せいぜい最初の何周かで力尽きて終わりだ。
プロのランナーでも目指しているのなら兎も角、それぞれが持ち合わせている長所と短所がある。それを理解せずに、ただ己の顕示欲を満たすためだけの指導に反感を覚えない訳がなかった。
「凛~。慧くんは大丈夫かなぁ~」
「無理に決まってるやっし!」
田二志のことを心配する甲斐の発言で、レギュラーメンバーの中で最もこの練習メニューを苦手としている男を思い出した。
どこを走っているのかと、視線を後ろに送れば何とか平古場達に付いて来ているが、完全に息が上がってしまっている。あれでは、いつ倒れてもおかしくない。
木手を呼びに行くにしても、平古場達レギュラーメンバーはその容姿の所為でただでさえ目立つ。隙をついてコースから外れることは簡単だが、いなくなればすぐに早乙女も気がつくだろう。
どうするべきか、と考えていた矢先に田二志が足を縺れさせて転んでしまった。しかも、最悪なことに早乙女の目の前でだ。
「慧くん!!」
「ふらー!行くな!!」
その姿を見た瞬間に身を翻して、田二志の傍に走りだした甲斐を止めようと声を上げたが遅かった。考えるよりも体が先に動く甲斐を止めるには、力ずくで止めなければ意味が無い。伸ばした手は、甲斐の腕に届くことなく空を切った。
平古場や他のメンバーも足を止めて、遠巻きに田二志を見つめていた。傍に早乙女がいるために、近づきたくても近づけなかった。きっと、近づいて手を貸せば「そんなことしてないでさっさと走れ」と怒鳴られることが目に見えているからだ。
そうして周りが躊躇いを見せる中、重苦しい空気など撥ねのけるように甲斐は田二志の傍に走りよる。重たい体を起こそうとしている田二志を手伝う為に、体を支えようとした所で目の前に竹刀が突きつけられた。何時の間にか傍に早乙女が立っていた。
「甲斐、どけ」
威圧的な声を発しながら甲斐を見下ろしている顔は、まるでゴミを見るような表情だった。甲斐は、その表情に一瞬息を止めたが、その場から動くことはせず睨みつける様に見つめ返した。
「なんだ、そのクソ生意気な目は!」
その表情が気に入らなかったのか、甲斐の肩を強く竹刀の先で突いた。激痛に肩を抑えようとしたが、田二志がバランスを崩すのが分かり慌てて支え直す。そんな甲斐に「もう離していい」と田二志は力なく言う。
「慧くん……!!」
「はっ、田二志もそう言ってるんだ。さっさと走りに戻れ」
「嫌だ!」
早乙女の言葉を反射的に拒否してきつく睨みつけた。次の瞬間、田二志ごと倒れるほどの衝撃が甲斐を襲った。鳩尾を思い切り蹴られ、バランスを崩して倒れこむ。甲斐は何度か咳き込み、痛むのか蹴られた部分を手で押さえていた。
「裕次郎、大丈夫かや!」
「元はと言えばお前の所為だろう」
早乙女は冷たく蔑む言葉を田二志へと投げかける。痛みに耐える様な表情で、田二志は早乙女を見上げて言葉を失くした。
「この程度の練習で、惨めな姿晒しやがって。甲斐もお前なんぞ助けずに、黙ってわしの言葉に従ってればこんなことにはならなかったんだ」
視線を田二志達から、周りで静観している部員達へと移しながら、全員に聞こえる様に大声で怒鳴り始めた。
「何してる!さっさと走れ、馬鹿共が!お前らみたいな弱い奴らの為に、わしがわざわざ時間を割いて鍛えてやってるんだからな!!」
部員の誰もが、その言葉を耐えるように聞いていた。
「まぁ、今のお前らみたいな、弱い奴らが全国大会に出場できるとは思えないがな。比嘉の名前に泥を塗る前にさっさと退部したらどうだ!!クズはクズらしく……」
早乙女の言葉はそこで途絶えた。嫌がらせの様に田二志の頭をつついていた竹刀を蹴り飛ばされたからだ。
気持ちよく罵倒の言葉を吐き散らしていた早乙女は、一瞬何が起きたのか分からなかった。竹刀が蹴られたのだと認識して、収まりかけていた怒りがまた一気に噴出した。蹴りつけた足を辿った先には、金色の髪を風に靡かせながら、こちらを睨みつける平古場の姿があった。
「このガキが……!!」
失礼極まりない平古場の行動と生意気な顔が勘に障り、蹴られた竹刀を平古場の顔に向けて振り下ろす。平古場は避ける様子を見せず、そのまま早乙女を睨みつけていて、殴られるというその瞬間に片足を後ろに引き体を沈みこませた。頭上で空を切る竹刀の音が過ぎれば、目の前にいる早乙女のバランスが崩れるのが見えた。とっさにバランスを取る為に、平古場の方へと動いてきた竹刀をすかさず掴み、早乙女へと突き出せば余計にバランスが崩れて尻餅をつく。手を突くために離された竹刀は、平古場の手の中に納まっている。平古場は、持ち手を剣先から柄に変えて早乙女へと一歩大きく前に歩み出る。
「そんなに殴りたきゃ、俺が殴ってやるよっ!!」
「や、やめろ……っ!」
だから、委員会に集中しいつもより終わるのに時間がかかってしまった。
それをこの後、木手は少しだけ悔やむことになる。
部活のピリピリとした空気は、まるで肌を静電気が這う様な感覚だった。その最たる原因は早乙女だ。珍しく、部活が始まってすぐの頃に姿を現して、特別メニューだなどと無理難題を強制してきた。
部員達がそれに大人しく従うのは木手の方針であり、目指す全国大会出場の為でもあった。
「ちっ、あのオヤジ何張り切ってんだよ。うぜぇな」
「木手がいないと思ったらこれだよ~」
「まだ永四郎は来ないのかよ……」
平古場は走り込みをしながら、たまたま近くに来ていた甲斐に声をかけた。サボっている素振りを見せれば、早乙女に何を言われるか分かったものではない。走るスピードは落とさず、横目で早乙女の姿を見れば一年生達を私欲の為だけに扱っている。その姿に苛立ちは募るばかりだった。
早乙女に意見でき、かつその言い分を論破できるのは部員の中では木手以外に存在しない。平古場や甲斐が反論しても、木手ほどの効果を得られた試しがなかった。
誰もが木手が来るのを今や遅しと待っていた。委員会に顔を出す程度だと聞いていたから、すぐに部活に来るだろうと思っていたが、なかなか姿を現す気配がなかった。
いつもの練習メニューである50キロメートル持久走、平古場や甲斐は最近になってやっと体が慣れてきたおかげで、完走するタイムを徐々に縮められていた。木手も3時間をきることを目標にしろと言っている程度で、そこまで強く強要することはなかった。それなのに、早乙女が1キロメートルを3分で走れと言い出した。
キロ3分は確かに、走ることが出来ないほど無理な時間ではない。けれど、それを50キロメートルずっと続けて走るとなると話は別だ。
平古場達が走るコースは決まっていて、大体1キロメートルのコースを周回するものだった。直線距離でもない、ましてや綺麗に整備された道でもないコースでキロ3分で走るのなんて無理に決まっている。走れたとしても、せいぜい最初の何周かで力尽きて終わりだ。
プロのランナーでも目指しているのなら兎も角、それぞれが持ち合わせている長所と短所がある。それを理解せずに、ただ己の顕示欲を満たすためだけの指導に反感を覚えない訳がなかった。
「凛~。慧くんは大丈夫かなぁ~」
「無理に決まってるやっし!」
田二志のことを心配する甲斐の発言で、レギュラーメンバーの中で最もこの練習メニューを苦手としている男を思い出した。
どこを走っているのかと、視線を後ろに送れば何とか平古場達に付いて来ているが、完全に息が上がってしまっている。あれでは、いつ倒れてもおかしくない。
木手を呼びに行くにしても、平古場達レギュラーメンバーはその容姿の所為でただでさえ目立つ。隙をついてコースから外れることは簡単だが、いなくなればすぐに早乙女も気がつくだろう。
どうするべきか、と考えていた矢先に田二志が足を縺れさせて転んでしまった。しかも、最悪なことに早乙女の目の前でだ。
「慧くん!!」
「ふらー!行くな!!」
その姿を見た瞬間に身を翻して、田二志の傍に走りだした甲斐を止めようと声を上げたが遅かった。考えるよりも体が先に動く甲斐を止めるには、力ずくで止めなければ意味が無い。伸ばした手は、甲斐の腕に届くことなく空を切った。
平古場や他のメンバーも足を止めて、遠巻きに田二志を見つめていた。傍に早乙女がいるために、近づきたくても近づけなかった。きっと、近づいて手を貸せば「そんなことしてないでさっさと走れ」と怒鳴られることが目に見えているからだ。
そうして周りが躊躇いを見せる中、重苦しい空気など撥ねのけるように甲斐は田二志の傍に走りよる。重たい体を起こそうとしている田二志を手伝う為に、体を支えようとした所で目の前に竹刀が突きつけられた。何時の間にか傍に早乙女が立っていた。
「甲斐、どけ」
威圧的な声を発しながら甲斐を見下ろしている顔は、まるでゴミを見るような表情だった。甲斐は、その表情に一瞬息を止めたが、その場から動くことはせず睨みつける様に見つめ返した。
「なんだ、そのクソ生意気な目は!」
その表情が気に入らなかったのか、甲斐の肩を強く竹刀の先で突いた。激痛に肩を抑えようとしたが、田二志がバランスを崩すのが分かり慌てて支え直す。そんな甲斐に「もう離していい」と田二志は力なく言う。
「慧くん……!!」
「はっ、田二志もそう言ってるんだ。さっさと走りに戻れ」
「嫌だ!」
早乙女の言葉を反射的に拒否してきつく睨みつけた。次の瞬間、田二志ごと倒れるほどの衝撃が甲斐を襲った。鳩尾を思い切り蹴られ、バランスを崩して倒れこむ。甲斐は何度か咳き込み、痛むのか蹴られた部分を手で押さえていた。
「裕次郎、大丈夫かや!」
「元はと言えばお前の所為だろう」
早乙女は冷たく蔑む言葉を田二志へと投げかける。痛みに耐える様な表情で、田二志は早乙女を見上げて言葉を失くした。
「この程度の練習で、惨めな姿晒しやがって。甲斐もお前なんぞ助けずに、黙ってわしの言葉に従ってればこんなことにはならなかったんだ」
視線を田二志達から、周りで静観している部員達へと移しながら、全員に聞こえる様に大声で怒鳴り始めた。
「何してる!さっさと走れ、馬鹿共が!お前らみたいな弱い奴らの為に、わしがわざわざ時間を割いて鍛えてやってるんだからな!!」
部員の誰もが、その言葉を耐えるように聞いていた。
「まぁ、今のお前らみたいな、弱い奴らが全国大会に出場できるとは思えないがな。比嘉の名前に泥を塗る前にさっさと退部したらどうだ!!クズはクズらしく……」
早乙女の言葉はそこで途絶えた。嫌がらせの様に田二志の頭をつついていた竹刀を蹴り飛ばされたからだ。
気持ちよく罵倒の言葉を吐き散らしていた早乙女は、一瞬何が起きたのか分からなかった。竹刀が蹴られたのだと認識して、収まりかけていた怒りがまた一気に噴出した。蹴りつけた足を辿った先には、金色の髪を風に靡かせながら、こちらを睨みつける平古場の姿があった。
「このガキが……!!」
失礼極まりない平古場の行動と生意気な顔が勘に障り、蹴られた竹刀を平古場の顔に向けて振り下ろす。平古場は避ける様子を見せず、そのまま早乙女を睨みつけていて、殴られるというその瞬間に片足を後ろに引き体を沈みこませた。頭上で空を切る竹刀の音が過ぎれば、目の前にいる早乙女のバランスが崩れるのが見えた。とっさにバランスを取る為に、平古場の方へと動いてきた竹刀をすかさず掴み、早乙女へと突き出せば余計にバランスが崩れて尻餅をつく。手を突くために離された竹刀は、平古場の手の中に納まっている。平古場は、持ち手を剣先から柄に変えて早乙女へと一歩大きく前に歩み出る。
「そんなに殴りたきゃ、俺が殴ってやるよっ!!」
「や、やめろ……っ!」