LOST ③ 後編
「凛!!」
竹刀を持つ腕を大きく振りかぶった平古場に、早乙女は驚愕と怯えを含んだ表情を見せた。そして、頭に血が上った平古場には、周りからの静止の声は耳をすり抜けてしまい意味を成さない。
誰もが振り下ろされた竹刀が早乙女の顔に直撃する様を幻視した。けれど、その瞬間は訪れることは無かった。
竹刀が何かにぶつかる音がした後に、地面へと竹刀が転がった。平古場は、衝撃で数歩先へ飛んだ竹刀とその傍に転がるテニスボールに視線を向けた。そして、痺れる様な痛みを訴える手を押さえながら、テニスボールが飛んで来たであろう方向を見れば、予想通りの人物が立っていた。
振り下ろされる竹刀にテニスボールを当てる。こんな芸当が出来るのは、今の所テニス部の中には一人しかいない。部長である木手だけだ。
静まり返ったその場で、泰然と立つ姿はいっそ神々しささえ持ち合わせていた。けれど、発する雰囲気は見た者誰もが気圧される威圧感と畏怖をまとっていた。
ゆっくりと平古場達に近づく木手を、誰もが固唾を呑んで見守っている。声が出せないと言うのが正しいのかもしれないが。
「何をしているんです?」
大きくも小さくもない静かな怒りが篭った声は、その場にいる全員の耳に届いた。けれど、その問いに答える者は誰一人いなかった。当事者である平古場も、甲斐も、田二志も、早乙女でさえ黙りこんで言葉を探しあぐねている様だった。
「立てますか」
木手は早乙女の傍に歩み寄って、腕を支えて立ち上がらせる。落ちている竹刀を拾って、早乙女へと渡せば奪うように受けとられた。それに何の感情も見せず、平古場へと向きを変えて眉間に皺を寄せ、厳しい目で見つめた。
「どういう状況か、説明してもらいましょうか」
「……」
「き、……っ!」
木手の視線から逃れるように地面へと顔を背ける。黙り込んだままの平古場に焦れた甲斐が、変わりに説明しようと声を上げたが、それは田二志によって遮られた。口を手で押さえられて、言葉は全て意味を成さない音になってしまった。
そんな二人を一瞥して、平古場に視線を戻せば木手と同じように眉間に皺を刻み、苛立たしげにポケットに手を突っ込んでいた。
「平古場クン、君に聞いているんですよ」
「ふん、わしを平古場が殴ろうとしたんだ。お前も見てただろうが」
平古場が答える代わりに早乙女が声を上げる。その言葉に、平古場はより眉間に皺を刻み鋭く睨みつける。その剣幕に一瞬ひるむが、早乙女は自身の潔白を主張するように言葉を続けた。
「何だその目は!走ることもろくに出来ないようなガキが、逆らうことだけは一人前か!!」
「てめぇ……!」
平古場はその暴言を聞いて、木手の登場で落ち着いていた怒りにまた火がついてしまった。早乙女へと足を踏み出した所で肩を木手に抑えられた。止められた事が腹立たしくて睨みつけるが、当の木手は早乙女へと視線を向けていて、平古場の存在などさほど気にしている様には見えなかった。
「走ることもろくに……?どういうことですか」
「そ、それは……」
口ごもる早乙女に、木手は冷たい視線を投げつける。
部活の練習メニューは基本的には木手が決めている。早乙女が部活に顔を出せばそれなりに指導をしているが、それは全て木手がいてこそ成り立つものだった。部員は部長である木手の言うことはよく聞くが、早乙女には冷めた態度をとることが多い。早乙女自身もそれは分かっているのだろうが、年下の子供にそんなプライドを傷つけられる様な態度をとられれば苛立たずにはいられない。そうして部員と監督の対立は溝を深め、木手が不在の日などは今日の様な小競り合いが何度も繰り返されていた。
「また、ですか……」
何もかも理解した様な言葉と、呆れた様なため息に早乙女は顔を真っ赤にして怒りをあらわにした。
「どいつもこいつも、教師に対して何だその態度は!!もうしらん、勝手にしろ!!!」
そう怒鳴り散らして、部員達に背を向け校舎へと消えてしまった。やっと安堵した雰囲気が部員達に生まれ、甲斐や田二志も立ち上がり怪我が無いことを確かめ合っている。
ただ一人、不満そうな気配を隠そうともせず、早乙女の後ろ姿に小声で「二度と来るな、たーこ」と口汚く罵る。
木手は他の部員に部活を再会するように指示を出した後、平古場達の傍へ歩み寄ってきた。いつも通りの冷静な態度に、怒りは収まっているのかと思ったが、顔にはありありと怒りが込められていた。
「少し、話を聞きたいのですが」
その言葉と共に、平古場達は部室へと重い足取りで移動した。
貝の様に口を閉ざしている平古場の変わりに、田二志達が一通りの経緯を説明した。説明を聞いている間、木手は終始無言で時折、平古場へ視線を投げては眉間に皺を寄せていた。
平古場は、始めからいい訳するつもりなどなかった。ただ、説明しろと言われて、自身の感情を挟まず上手く説明することが出来ると思わなかったし、感情論で話せばきっと木手にはいい訳している様に聞こえるだろう。それが酷く嫌だった。先ほどの早乙女への態度は、確かに頭に血が上った突発的な行動だったと少しは反省すべき所がある。けれど、悪いことをしたとは思わない。だから、謝罪もするつもりはなかった。
「なるほど。分かりました」
落ち着きを取り戻した木手は、田二志達にそれだけ言うと練習に戻るように指示を出した。甲斐と田二志は顔を見合わせて、「でも……」と弱々しい声で平古場を見つめる。きっと、このまま二人を残して行く事が不安なのだろう。
普段から、喧嘩の多い二人だ。仲はいいはずなのに、お互い頑固な部分があるから、自身の考えが譲れないと思うことがあれば、よく派手な言い合いをしていた。たぶんきっと、今回の件もそうなるだろうと、平古場の態度から簡単に予測はつく。出来れば、二人の話合いの決着がつくまでは此処に残っていたと、二人の雰囲気から伝わってきた。
「先に戻ってろ。すぐに、わんも合流する」
二人の視線に気がついたのか、少し困った様な笑みを浮かべた平古場は、イスから立ち上がり甲斐の肩と、田二志のお腹を軽く叩いた。
「さっさとこの肉減らしてこい」
「ぬーが!凛!!」
「あははっ、行こう慧くん。さっさと来いよ凛!」
田二志がお返しだとばかりに凛のお腹をつついて、甲斐は田二志の背中を押しながら部室を出て行った。二人の姿がドアから消えた後、平古場は小さく一つ深呼吸をしてから、木手へと向き直った。そこには、先ほどまで浮かべていた笑みはなく、鋭いまでの真剣な瞳が木手を貫く。
「監督に手をだすな……とでも言いたそうだな?」
「ええ、今回はやり過ぎだと思います。もし、監督に怪我を負わせることになれば、君は停学になっていたでしょうね。君が監督へ感じた怒りは分かります。けれど、そうならない為にも今は我慢が必要です」
「馬鹿にされたまま、黙ってろって言うのか!?」
声を荒げた平古場に、諭すように落ち着いた声で木手は言葉を続ける。
「そうじゃない。馬鹿にされたと思うなら、言葉でなく行動で示せと言っているんだ」
「……俺には出来ない。あいつらが、傷つけられて、黙っていることなんて出来ない」