serenade
「…大佐が、変?」
久しぶりに訪れた東方司令部にて、エドワードは噂の「大佐」の副官からそう聞かされた。
「いつも変じゃん」
「それはそうなんだけど…そうじゃないの、何かもっと…」
そうなんだけどって、認めるんだ、と内心微かに怯んだものの、エドワードは小首を傾げて「どう変なの?」と聞いてみる。興味があった…かどうかというよりも、中尉が話したそうな気配を感じたからで、ここ東方司令部にあって彼女に重きをなすべきというのは処世術といった方がいいような面もあった。
「…そうね…、似合わないんだけど、恋わずらいのような…」
顎を押さえて物憂げに言う彼女に、エドワードは目を丸くした。
恋わずらい? あの自信満々な男が?
「えっ、それはないんじゃないの?」
さすがに、と否定したら、そうねえと頷くかと思われたが、なぜか彼女は苦笑した。そして、こっそりと囁かれた内緒ごと。
「…あのひと、あなたが…世間が思うよりも、意外と不器用よ」
「…不器用」
「そう。本当に大佐の本質を見て惹かれるような女性は意外と少ないと思うわよ」
「……」
エドワードは何とも言えない微妙な顔をしてしまった。
「エドワード君?」
「…なんでもない」
胸を軽く押さえたエドワードに瞬きして腰を折った女性に、エドワードは慌てた様子で腕を振り、笑ってごまかす。
「…じゃ、じゃあ、…そうだ、その不調な片思い男がさぼってないかどうか、オレ見てくるよ!」
「…? ええ、そうね。お願いします」
後でお茶を持っていくわ、と声をかけてくれる中尉から、気持ち速足で遠ざかりながら、エドワードは今度こそしっかりと胸を押さえる。どきどきしている。どうしよう、と喉元までこみあげてくる何かがある。耳の傍で鼓動がしているようで、いやにうるさい。
「…………どうして、」
耳が熱を持っているのが自分でも判った。こんな顔で、いくら腑抜けていたってロイは大佐だ、あの見ていないようで見ている男の前でどうやって平静になれるかを考えてみるけれど、どうも芳しくないように思った。
エドワードは機械鎧の右手で耳を押さえ、頬を撫でた。今ばかりはひんやりとしたその温度がありがたいと思えた。
珍しくドアの前で躊躇してしまったが、躊躇したことにまた焦ってしまって、結局はいつものように乱暴にドアを開けた。
「…よっ、大佐…」
語尾から元気がなくなってしまったのは、エドワードが動揺していたから、だけではなかった。ロイが、物憂げに頬杖をつくその横顔を見てしまったせいだ。
「…、鋼の?」
…見惚れて、しまったのだ。その憂いを帯びた深い眼差しに。切れ長の黒い瞳が、どこか遠くを見ている、その孤高の表情に。
どくん、と心臓が一際大きな悲鳴を上げた。
「………」
喘ぐような息が、喉からこぼれた。ロイは驚いたように目を瞠って、がたんと椅子を立つと大股にエドワードの方へ近づいてきた。思わず逃げようと後ずさったのは、意識的な判断ではない。ただ、とにかく逃げ出したかった。だがその動きを見抜いたロイの方が行動が早かった。彼は腕を伸ばすと、逃げようとする小柄、その手首を掴んで引き留めていたのである。
「…なぜ、逃げるんだ」
離せ、というよりも彼の質問、いや詰問かもしれないが、とにかくロイの台詞の方が早かった。
「…わかんない」
色々言うべきことはあったと思うし、他にも言葉は何かあったと思うけれど、もうそれしかなかった。だって、本当にわからなかったのだ。
「わからない? わからないのに逃げるのか。君らしくない」
中尉は恋煩いだと言ったけれど、とエドワードの脳裏をよぎるのは泣きごとに近い苛立ちだった。淡々と追い詰めるロイには容赦がなく、鼻がつんとしてくるのが自分でもわかったくらいだ。
「…逃げてない」
「……」
ロイもさすがにばつが悪くなったのか、そっと手を離してくれた。ただ、逃がさないという思いはあるようで、踵を返そうとすればまた拘束される気配はあった。
「…わ、わすれもの」
うつむいたまま、やけくそのように言いだした台詞にロイは目を丸くした。これはまた随分ひねりのないいいわけだ。らしくない、と言ってもいいかもしれない。
「忘れ物を思い出して帰ろうとした、と?」
こくり、とエドワードは頷いた。…俯いてしまっているので、ロイもさすがに、子供をいじめている気持ちになってしまって困った。こんなに小さかっただろうか、と本人が聞けば怒り出すようなことを、その時の彼は考えていた。知っていたけれど実感した、というような具合に。だから案外優しい声が出ていたのではないかと思う。
「…。じゃあ、一緒に行こうか」
「え」
思わず、といった様子でエドワードは顔を上げた。そこにあったのは、怒っているわけでもなく、といって媚びているわけでもない、なんとも言いようのない表情を浮かべた男の顔だ。まるで初めて見る、知らない男のようだと思ってしまって無意識に顎を引く。けれど、男はそんな些細な仕種には頓着せずに重ねる。
「取りに行くんだろう? 一緒に行くよ」
「…なんで」
「その方が早いだろう。…何か問題が?」
逃げるつもりがないならいいだろう、と迫られたら退路がない。う、と詰まったあと、結局渋々エドワードは頷いた。ロイは、なぜか安堵したような顔で小さく笑う。
「よし。…じゃあ、行こうか」
「うん、…っ、て、…ちょっと! なんだよ!」
行こうってったって、どこに行けばいいんだ、と自分の考えのなさを呪う暇はエドワードには与えられなかった。ロイがしっかりとエドワードの手を握ってきたからだ。しかも、何を思ったか生身の左手を。見た目よりもずっと硬くて、大きくて、しっかりとした手だった。エドワードの手なんて簡単に丸めこまれてしまう。
ぞっとした。その事実に。その現実に、嫌悪も恐怖も覚えなかった自分に。
「何って。手をつないだだけだ」
「…なんで、手つなぐ必要があるんだよ」
「だって、そうしないと君、逃げるだろう」
逃げるか負けるとか、エドワードの嫌いそうな言葉を並べて動きを封じてくるのが手練手管というものなのだろうか。…そんなこと、エドワードには全くわからないし、そもそも考える余裕もなかった。
「……逃げねーし、…忘れものとか、…嘘だし」
「……」
「だから離せよ。…ちょっと驚いただけなんだって…」
消え入りそうな声で言われて、ロイはやっと手を離した。そうして膝を折ると、エドワードの顔を覗き込んでくる。真剣な目の奥には、何かを探しているような色があった。
「…大佐?」
吸い込まれそうだと思いながら、恐る恐るエドワードは声をかけた。しかし、それで呪縛がとけたのか、なんでもない、と男は言うのだった――…。