笑い鬼
桜が散ろうかという頃に唐突に白石城を政宗が訪れた。
父は会わぬと言っておりますと言えば、知っていると主は苦々しげに笑った。
「強情な野郎だなァ」
桜を眺めながら政宗は息を吐く。
重長はそれに相づちを打つ気にはなれず、ただ黙って家人に宴の用意をするように命じた。
散りかけの桜は、それはそれで見頃であるとも言えた。はらはらと薄紅が宵の空に映えてうつくしい。
政宗はその風情にひどく満足げであった。
重長はそれに同調しようとしたが、適わなかった。
あれ以来、鬼と一度も話をしないまま今日を迎えている。政宗に逆恨みをするような思いこそないものの、主の顔を見ると自然、鬼への嫌悪を思い出して憂鬱な気分が腹に満ちた。
聡い主はそれをすぐに見抜く。
どうしたのか、と問われた。
「息子は夫と喧嘩をしたのですわ」
母がからかうように言った。
宴に集まった面々は皆大笑いをした。重長もそれに付き合うように乾いた笑いをこぼす。母なりの気遣いであることは解っていたので、黙ってそれに乗ることにした。
上座に控えた政宗が愉しげに目を細める。
「なんだ、親子喧嘩か」
「お恥ずかしい話でございます」
「Ha!いいじゃねェか、元気な証拠だぜ。そうか、―――そうか」
喧嘩ができるくらいには、元気なんだな。
政宗は安堵したように息を吐き、酒を呷る。重長も倣うように一息に酒を飲んだ。
泥のような味がした。
吐きそうだが主の前で流石に嘔吐はできない。
嗚呼、なんて息が苦しいんだろう。
「あいつは強情で偏屈だから、おまえも苦労することは多いだろうが、余り気に病まねェほうがいい」
宥めるように主が重長に声をかける。
「実のところ、あんな顔をしちゃァいるが、あいつは飛び切りにやさしい男なんだぜ」
宝物でも自慢するように政宗は破顔した。
重長はそれこそ嘔吐する寸前のように胸の心地が悪くなったが、それでも懸命に笑みを浮かべて頷いた。そんな馬鹿げた話はないと叫びたいのを必死で堪えた。
あれは鬼なのです。
何故解らぬのですか政宗様。
正面に座す母が、咎めるように此方を見ている。重長は背筋を伸ばし、空いた杯に酒を注ぐために立ち上がり、政宗の傍近くまで寄った。政宗は笑みを浮かべながら重長を眺め、仲良くしろよと独り言のようにつぶやく。仲良くしろよ、たったひとりの父と子じゃあねェかと言う。
重長はあいまいに頷いて自分の席に戻った。
「もう顔を見なくなって二年も経つが、つた、おまえの旦那はどうだ。大分老けただろうな」
「左様でございますね、もうすっかりお爺さんですわ」
「そいつァ是非見てェもんだ」
「御館様に見られるのが厭なのでしょう。存外、見栄っ張りなおひとですもの」
「ふふ、益々愉しみじゃあねェか。なァ」
「まあ、意地悪ですこと」
母と政宗が談笑している。
あのふたりには解らないのだと重長は泥のような酒と屍肉のように生臭い肴を口に押し込みながら苦々しく思った。老けるわけがない、母は見ていないのだろうか、あれは変わらず、今でも健勝なのだ。病というのもきっと何かの偽りなのだ。おそらくは誰かを苦しめる為の偽りである。鬼なのだ。ひとが苦しむのを歓ぶ生き物なのだ。
ふたりには見えないのか、―――あの、
角が。
「小十郎」
主が自分を呼んでいる。
何故だかひどく遠く聞こえた。
「親父のことを余り厭わしく思うなよ。訳もなく厳しくする奴じゃねェ。何か、意味があるんだろう。そういう男だ。昔からな。誰よりも先を読んでやがる。必ず意味があるんだ、あいつのすることには。叱咤も罵声も、いずれおまえの助けになるにちがいねェ」
それはない、と重長は思う。
それはないのです、それはないのです政宗様。
声は出なかった。出せるわけがなかった。何かに感付いたような母の視線が痛くほおに突き刺さり、そうでなくても目の前の主の顔があんまり幸福感に満ちていて、それを制することが出来るような気配はどこにも存在しなかったのである。
一目でも、と政宗はつぶやくように言う。
会いたいもんだな。会えねェとなると、ますますそれが募るとはよくいったもんだが、
衰えなど気にせず、此処に来ればいい。
詰らないことばかりを、昔から気にしてばかりいやがる。
「どこまでも自分の幸福を後回しにする困った野郎なんだ、あの野郎は」
切なげな顔で陶然と息を吐く主に、しん、と座は静まった。
その沈黙のなかには、確かにある種の感動があった。家人は皆黙りこくって、おそらくは自分たちの家の主人が、その主にこうまであいされているのかという驚きに体を固めているようだった。政宗に付いてきた伊達家の家臣たちもまた黙り込んでいた。一介の家臣にここまで愛を注ぐことが適う自らの主に彼らは感動しているのかもしれなかった。
母も黙り込んでいた。
母が何を考えているのかは解らない。
重長は堪えに堪えた吐き気が極限に達して、思わず席を立ちそうになったがしばらくは堪え、すこし照れたように政宗が場を誤魔化し、皆がてんでに話し出してから、ようやっと厠に向かうために大広間を出て廊下に駆けだした。