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笑い鬼

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厠から広間へと戻る中途で、庭先に立つ鬼を見かけた。
鬼の寝所の面した中庭ではなく、外庭である。珍しいこともあるものだと重長は足を止めた。鬼は桜を見上げていたのである。
薄紅がはらはらと散っている。
月のひかりが鬼を照らしていた。
鬼の横顔は鋭さを益々増して、まるで刃物そのもののようにすら見えた。重長はそこで、思ったよりも鬼の衰えが深いことを今更のように知った。未だ逞しい長躯は、それでも随分と細くなっているようだった。桜の薄紅に反して、かつては褐色だった肌はしらじらといろを薄めている。月のひかりに照らされるとまるで死人のように蒼白い。
鬼は桜をしばらく眺めていたが、急に咳き込みだした。夜風が病に障ったのだろう。烈しく咳き込み、桜の幹に手を突いてしゃがみ込む。それでも咳は止らない。
重長はしばらく、黙ってそれを見ていた。
そのうちに咳に血が絡み出したような不快な音がして、そこでようやっと重長は我に返り、慌てて庭に降りて鬼に近寄った。背中をさすり、喉を上向けてやるとようやく鬼の咳は止った。

「こんなところで何をしている」

鬼の開口一番の言葉にも重長は何も思わないよう努めた。
何か感じていては切りがない。

「厠に行っておりました。父上、こんなところに居るくらいでしたら、政宗に一言ご挨拶をなさっては如何ですか」

鬼は何も言わずに立ち上がる。
てのひらのなかには赤いものが見えた。喉の何処かを切ったのだろう。唇の朱を拳で拭い、鬼は確認するように息を吐くと、覚束ない足取りで屋敷のほうへと歩き出す。
その背中も月明かりの下で見ると、何処か頼りない。
重長は立ち上がり、口を開いた。

「父上」

鬼は振り返らない。
敷石を渡り、廊下に上る。一瞬覗いた足首がおそろしく細く、重長は急に息苦しさが増した胸を、咄嗟に左手で握り締めた。熱い衝動のようなものが喉元まで込み上げて、しかしそれの正体が知れない。重長はひどく混乱した。
鬼にしては目の前に居る生き物は、とても弱っている。

「父上、父上、―――先日のこと、申し訳のうございました」

声を高くすると、ようやく鬼が振り返る。
畳みかけるように重長は言葉を続けた。

「この重長が未熟でございました。考えが足りなかったと、今では思っております。父上のすること、これすべてが政宗様の御為であることなど承知の上であったというのに、愚かしくもそれを失念したこと、今は深く反省しております。今ならば父上のご命令である、家訓のことも理解できまする。政宗様の御為、伊達家の御為、ただそのためには自家の繁栄は却って邪魔なだけ、家臣のうちに主よりも評判の高いものが居ては混乱の元。つまり、―――そういうことでありましょうな」

何を言っているんだろうかと重長は、言葉を舌に乗せながらも後悔に苛まれた。
これではまるで、自ら得たばかりの知識を誇りたがる童子のようである。褒め言葉を強請る、愚かな生き物だ。あまりにも浅はかなおのれの言葉に、すべてを言い終えるのと同時に重長は顔を紅潮させ、地面を睨んだ。鬼は黙って重長の言葉を聞いていた。

「それで?」

すこし間を置いて、鬼は言った。

「それで、おまえはそれを俺に伝えて、どうするというんだ?」

嗚呼、まったくそのとおりだ。
重長は黙ったまま土を睨み、唇を血が出るほどに噛み締めた。

「熟々、愚かな息子だ」

鬼の言葉に何も言い返す言葉が見つからず、重長は余りにも熱い顔にこのまま溶けてしまえればいいとすら思った。鬼は動く気配がない。屹度呆れた、侮蔑に満ちた目で重長を見下ろしているのだろう。あまりの羞恥に心の臟が止りそうだった。
それでも重長は、血の滲む口を懸命に開いた。

「政宗様と、―――お会いくだされ」

またそれか、と鬼が嗤うように吐く。

「鸚鵡でも、もそっと多くの言葉を知っているだろう」
「鸚鵡でも構いませぬ、父上。政宗様とお会いくだされ。儂は確かに愚息でしょう。「小十郎」の名にはそぐわぬ愚か者でしょう。父上の仰るように、私情を棄て切ることができませぬ。仕えるのならば、傍に居るのならば矢張り寵愛が欲しいと思うてしまいます。父上のようには出来ませぬ。儂は、」

鬼ではないのだ。
ひとなのだ。
あいされたいのだ。

「政宗様にお会いくだされ。政宗様は、お会い出来ぬその間も、父上のことを延々考えておるのです。儂ではどうしてもいけぬのです。代りにもなりませぬ。これより懸命に努めまする。どうにか父上のように、「小十郎」の名を継ぐに相応しい者になるべく、この身を粉にして努めまする、しかし」
 
今は、
いや屹度、これから先も延々そうだろう。
「小十郎」はこれからも、自分ではありえないのである。

「お会いしてくだされ、一目でいいのです、一目で」

血を吐くように重長は声を絞った。
口のなかに鉄の味が満ちる。しかしそれは、先刻まで口にしていた酒宴の酒よりはまともな味がした。言い切ると、すこしだけ何かしら体が軽くなった。すべて言い尽くして、汚らしいものが体のなかから消えたのやもしれない。虚しいような爽快感があった。
すこしだけ沈黙が落ちた。

それを破ったのは、言葉ではなく、ひとつの笑い声だった。

始め重長はそれが誰の物であるか解らなかった。
地面を見ていたのである。周りは見えない。笑い声は上から聞こえた。重長は弾かれたように体を持ち上げた。見渡す限りに、そこに新しい人影は見えない。背後を振り返ってもそこには誰も居なかった。重長はゆるゆると体を前に戻した。
そしてそこで、鬼が笑う姿を見た。

「そうか、」

政宗様が。
鬼は黙った。
月のひかりが真っ直ぐに鬼を照らしている。
鬼は笑いながら、また咳をした。血の絡んだ痰をてのひらに吐き出すと、鬼は目を細め、ひどく満足げに笑みを益々深くした。唇の端に、朱が残っている。鬼はしばらく感極まったように黙り込んでいたが、そのうちに堪え切れぬような笑みを湛えたまま、踵を返して寝所へと去って行った。そこに自分の息子が居ることなど忘れているような迷いのない足取りだった。実際、忘れていたのかもしれない。
庭に残された重長は庭から廊下へと戻った。
庭を振り返ると、空に弓張り月が上っている。
重長は細い月を見ながら、矢張りあれは鬼なのだ、と思った。
自分と会えぬことで苦しむ主の姿で、ああまで幸福に満ちた笑みを浮かべることが出来るなど、凡そのひとであればありえぬことである。あれは鬼だ。誰もが騙されている。重長だけが知っている。政宗の為にというのも、すべては自分の幸福の為にちがいない。
なんという欺瞞だろうなんという策略だろう。
重長は大広間に向かいながら、しかし鬼を恨むのを止めようと決めた。他人の憎悪は、むしろ鬼を歓ばせるばかりである。自分が厭われることは、そのまま政宗があいされることに繋がる。そういうふうに鬼はすべてを操っている。そして政宗からの愛を独占するのだ。
なんという強欲な生き物だろう。
ひとでは、有り得ない。
それが父である。

月のひかりの下で笑う父の姿を思い出し、鬼にあいされたいと願ったおのれを重長はひっそりと憐れんだ。









作品名:笑い鬼 作家名:そらそら