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D.C. ~ダ・カーポ~【同人誌サンプル】

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Chapter00 2003/05/27 (Tue)



 ――彼女の『愛のあいさつ』は、届かなかった……。

 甘く、優雅な愛のメロディが、放課後の屋上に鳴り響いていた。
 珠玉の時間は、あっという間に過ぎてしまい――自由奔放に吹き回る微風が、紡ぎ出した最後のフレーズを、遙か彼方へと運び去る。
 空を仰いだヴァイオリンの弦と弓は、演奏の余韻を惜しむかのように、未だ触れ合ったままだ。いくら待てども、拍手喝采が送られる気配はない。
 そうして『世界』に、重い沈黙と静止が訪れる……。

「……どうして?」
 観客のいない奏者――日野香穂子は、構えたままのヴァイオリンを下ろすと、青ざめた唇を震わせた。
 喩えようのない不安が胸に湧き上がり、押し潰されそうになる。鼓動に合わせて全身の血管が収縮し、冷たい厭な汗が背中を伝い垂れた。
 香穂子は両の瞼を閉じて、視覚を遮断する。早鐘を打つ心臓を宥めようと、心の中で何度も呟いた。
(大丈夫、大丈夫、だいじょうぶ……)
 ヴァイオリンの透き通った音色は、香穂子の心と共鳴し、優美な愛の旋律を謳いあげていた。己の力をすべて出し切った、最高の演奏ができたと確信している。
「……よし」
 わざと声に出して、自分に活を入れた。
 奥歯をきつく噛み締めると、勢いよく背後を振り返って、目を見開く。
「…………」
 開けた視界の中心――音楽科校舎の二階へと続く、スチール製のドアは、固く閉ざされたままだった。

 ――自分と『彼』を繋ぐドアは、開かれない。
 ――『奇跡』は、起こらない……。

 瞳に映った景色が急速に色褪せ、心が凍り付いていく。
「先生……」
 香穂子は今にも消え入りそうな声でそう呟くと、天を仰ぎ見た。
 そこに広がっているのは、彼女の心とは対照的に、薄雲ひとつない、澄み渡った晩春の空だった……。

「ごめんなさい、リリ……私には無理みたい……」
 香穂子の視界が急激に滲んだ。それまで晴れていたはずの青空が、雨模様へと様変わりする。
 香穂子の目尻から溢れ出した熱い雫が、頬を伝い垂れ、足下のコンクリートに水玉模様を描く。この悲しい雨が降っているのは、彼女の心の中だけだ。
「……ぅ、っ」
 しゃくりあげそうになるのを懸命に堪えながら、香穂子は震える指でヴァイオリンをケースに収納した。
 学院に住み着いた音楽の妖精に与えられたそれは、有名なオールド・ヴァイオリンを模した、ごく普通のヴァイオリンである。
 最初に使っていた魔法のヴァイオリン――誰にでも簡単に弾くことができる特別なヴァイオリンである……は、第三セレクションの直後に壊れてしまった。注ぎ込まれた魔力を使い切って、圧縮された寿命を全うしたのだ。
 ――或いは、魔法のヴァイオリンで『愛のあいさつ』を奏でれば、結果は異なったのであろうか……?
 だが、ヴァイオリンが壊れてしまった今、それを検証する手立てはない。
 通学鞄とヴァイオリンケースを提げた香穂子は、弱々しい足運びで、階下へ続くドアの前に進んだ。未練がましく最後にもう一度だけ振り返って、無人の屋上を一瞥すると、金属製のドアノブに手を掛ける。
 ――もしかして、彼は、そこにいるのではないか?
 過去の大失恋が原因で、恋愛に対して人一倍臆病で後ろ向きな男である。あと一歩を踏み出す勇気が出せず、ドア越しに自分の演奏を聴いていたのではないか……?
 そんな香穂子の淡い期待は、しんとした人気のない踊り場という現実により、無惨に打ち砕かれた。