D.C. ~ダ・カーポ~【同人誌サンプル】
――この一年生は、危険だ!
香穂子は芝生についた掌に力を込めると、男子生徒から少しでも距離を離すべく後退する。
こつんと固い感触が肘に当たって初めて、背後に木の幹があることを知った。逃げられない。
「あ……」
宙を泳ぐ香穂子の目線は、半ば無意識に男子生徒の唇へと向けられる。震える指先で、半開きになった自分のそれをなぞれば、未だ彼の温もりが残っているようにも思えた。
「――あのっ、今……き、キ……」
訊きたいことは、ただひとつ――しかし、喉が引き攣って声が掠れ、上手く言葉にならない。
「ん……? ほら、眠り姫を起こすのは、王子様のキスって、昔から決まってるだろ?」
男子生徒は無邪気な笑みを浮かべて、さらりと答えた。
――王子様。
そうだ。この男子生徒の全身から漂う、きらきらとした輝きは、童話に登場する王子様そのものだ。
魔女の呪いを掛けられたお姫様に、通り掛かりの王子様がキスをして、ハッピーエンドを迎えるおとぎ話は、巷に溢れている。
だが、香穂子にとっての問題は「そこ」ではない。
「……キ……ス」
唇に残る温もりの正体が、王子のキスであるとあっさり肯定されてしまった香穂子の思考回路はスパーク寸前……否、完全にショートしていた。
「ぁっ……」
ふっと意識が遠くなり、後頭部ががくりと傾く。
「――危ねぇ!」
重力に任せるまま倒れそうになった香穂子の背中を、慌てて男子生徒が抱き留めた。緋色の髪が腕の中で踊る。
「おい、大丈夫か?」
「……っ、そんな……」
正真正銘、あれが香穂子のファーストキスだった。
いつかは金澤のために……と思っていたファーストキスを見ず知らずの男子生徒――それも下級生に、こんな形で奪われるなんて……。
「おい、死にそうな顔するなって。心配しなくても舌は入れてないからさ……あ、入れた方がよかった、とか……?」
「舌……?」
デリカシーの欠片もない男子生徒の発言に、香穂子の中の何かが、ぷちんと音を立てて切れる。
考えるよりも早く、身体が反応していた。
「――いやぁぁっ! この、ド変態っ!」
ぱしっという爽快な破裂音が、森の広場に木霊する。
平手で人を叩いたのは、キスに続き初めての経験だったが、相手が完全に無防備だったせいもあって、面白いほど綺麗に決まった。
「――っ、いってぇ……いきなり何するんだよ!」
赤く腫れた頬を押さえて、男子生徒が口を尖らせる。平手を余すことなく受け止めた結果、尻餅をつく羽目になった。
「あっ……当たり前じゃないっ! そっちこそ、何、考えてるのよ!」
香穂子も強い口調で言い返す。
感情が急激に昂ぶったせいだろう。見開いた目尻から、熱い涙が溢れ出ていた。
「うっ……泣くなって、俺、泣かれると弱いんだよ……」
「な、泣いてなんか……いないわよ!」
香穂子は狼狽する男子生徒をきつと睨み付けて、濡れた頬を手の甲で拭う。声が震えているのは、怒りのせいだ。
「お前、さっきも泣いてたみたいだからさ……元気の出るおまじないのつもりだったんだ」
弁解にもならないような言い訳を口にする。それがかえって香穂子の怒りに油を注ぐ結果になった。
「――あれがおまじない……!? か、彼女でもない子にキスするなんて、最低よ!」
「だったら俺の彼女になる? 責任、ちゃんと取ればいいんだろ? いいぜ、俺の彼女にしてやるよ」
「……っ、いい加減にして!」
開いた口が塞がらない――とは、まさにこういった状況を指すのだろう。
一向に悪びれた様子のない男子生徒の横っ面に、もう一発、強烈な平手をお見舞いしてやりたい気分だった。
作品名:D.C. ~ダ・カーポ~【同人誌サンプル】 作家名:紫焔