せめてこの手を離すまで
「見てくださいレクイエムさん、きれいな花でしょう?」
「……ああ、そうだな」
それはとある広大な空と大地の片隅で。そばに咲いていた黄色い花を眺めて、スミレは小さく笑みを浮かべた。
「……マスターにも、見せたかったなあ」
そしてぽつりと呟いた直後、彼はさも不思議そうな顔をして首をかしげて。「あれ、マスターって……誰のことだろう……」と記憶の糸をたぐり寄せるように眉根を寄せてうつむくスミレを、私はただそっと抱き寄せる。どうしたんですか、と照れたように笑うその姿を見て募るのは、ただ愛しさとほんのわずかな寂しさで。
──スミレはもう、全く覚えていないのだ。あれほどまでに慕い、愛した自らの主のことを。
私がスミレと出会ったのは、今からどれくらい前だったろうか。そのときはまだ、スミレは「マスター」のことを覚えていたし、他の誰よりもマスターのことを愛していた。
だから私は、スミレへの想いを隠して彼のそばにいた。そばにいられるだけでも幸せだ、なんてきれいごとを言うつもりはないけれど、その笑顔さえあればよかったから。マスターとの思い出を語るスミレを見ているだけで満たされた気分になったから。
……だが、それが壊れたのはつい最近のことで。
「レクイエムさん? どうしたんですか?」
そしてそのとき、腕の中からかかった声で私は我に返った。何でもないさ、少し考え事をしていたんだとその額に唇を落とせば、スミレはさも幸せそうに笑顔を浮かべて。
……ああ、ああ。この笑顔はかつて、スミレがマスターに向けていた笑顔ときっと同じもの。マスターへの想いを忘れてしまったお前が私に告げた愛の言葉が、どれほど私の胸に突き刺さったのかなどお前は知らないのだろう?
スミレが以前はとても執着していたはずの、彼のマスターの墓標への関心が薄れつつあることは知っていたのだ。それはつまり、記憶領域が段々と壊れてきている証なのであろうということも。
けれどまさか、マスターの存在すらも忘れてしまうとは思ってもいなかった。そしてまた時間が経てば、恐らくスミレは私のことをも忘れてしまうのだろう。
……所詮機械というものはそういうものなのだ。いくら人間に近くなるようにつくられようと、完璧な人間になるということは不可能。人間は一度物事を忘れても思い出すことができるが、私たちアンドロイドが記憶を失えば、その記憶は永遠に戻ることなどないのだから。
それならばいっそ、私のことを忘れる前にこの手でスミレを壊してしまおうか、なんてことも考えたが、生憎私は愛した者を手にかけることができるほど心の強い者ではない。結局は何も打つ手がないのだ、スミレが全てを忘れ去ってしまうまでもう時間がないことなど痛いほどに理解している。
「ねえレクイエムさん。僕、ずっと前から気になってたんですけど……
このお墓、一体誰のお墓なんですか?」
言ってスミレは、そばにあった自らの主が眠る墓標を見て小さく首をかしげる。その言葉に涙がこぼれそうになったのは一体なぜなのだろう、泣きたいのはきっと私ではなく彼のマスターの方だろうに。
「……とあるアンドロイドにとても、とても愛された人間の墓だよ」
忘却は死だ。恐らくはもう、スミレのマスターのことを覚えている者などこの世界には一人もいないのであろう。最後の記憶が朽ちた時、人はもう一度死ぬのだとどこかで聞いたことがある。
「そうなんですか……」
私が悲しげな目をしていたことに気付いたのだろうか、スミレはそれ以上のことを問おうとはしなかった。しかしその代わりに、でも、と小さく声を上げ、彼は静かに目を閉じる。
「そのアンドロイドさん、とても幸せだったんだと思います。このお墓に触れただけで分かります、アンドロイドさんはこの下に眠る方のことを心から愛していたのでしょう」
……ああ、そうだな、と。私はその言葉を口には出さずにそっと呑みこんだ。私はこうやってスミレと一緒にいていいのだろうか、もうスミレが記憶を取り戻すことがないことなど分かりきっているけれど、それでも本当は真実を告げて私が身を引くべきなのだろう。それでもそれができないでいるのは、もう壊れそうなほどに私がスミレを愛してしまっているからで。
人工の命とはなんて残酷なものなのだろう。そしてその命が愛という感情を覚えてしまったことを、運命や必然という言葉で片付けてはいけない気がする。
なあスミレ、お前が本来愛すべきは私ではないんだ。お前には心の底から愛した者がいたはずだ、思い出せとは言えないけれど、それでもその瞳が映すべきは私ではなかったというのに。
「そして僕は、レクイエムさんのことが一番好きですからね」
「……有難う。私もお前が一番、だ……」
言いながらスミレを抱きしめる腕に力をこめる。そうやってお前は無自覚に、無意識に、無防備に笑うのだ、それが私の心をひどく傷つけていることすら知らずに。
たしかに私はお前のことが好きだよ、愛している。けれど私が本当に好きだったのは、マスターに恋をし続けていた時のお前だったのかもしれない。
しかしもう戻ることができないならば、お前が全てを失っても私はお前の隣に居よう。そうしてお前が朽ちた時、私はその亡骸にそっと鎮魂歌を奏でようではないか。
せめて、この想いが風に消えるまでは。
「……ああ、そうだな」
それはとある広大な空と大地の片隅で。そばに咲いていた黄色い花を眺めて、スミレは小さく笑みを浮かべた。
「……マスターにも、見せたかったなあ」
そしてぽつりと呟いた直後、彼はさも不思議そうな顔をして首をかしげて。「あれ、マスターって……誰のことだろう……」と記憶の糸をたぐり寄せるように眉根を寄せてうつむくスミレを、私はただそっと抱き寄せる。どうしたんですか、と照れたように笑うその姿を見て募るのは、ただ愛しさとほんのわずかな寂しさで。
──スミレはもう、全く覚えていないのだ。あれほどまでに慕い、愛した自らの主のことを。
私がスミレと出会ったのは、今からどれくらい前だったろうか。そのときはまだ、スミレは「マスター」のことを覚えていたし、他の誰よりもマスターのことを愛していた。
だから私は、スミレへの想いを隠して彼のそばにいた。そばにいられるだけでも幸せだ、なんてきれいごとを言うつもりはないけれど、その笑顔さえあればよかったから。マスターとの思い出を語るスミレを見ているだけで満たされた気分になったから。
……だが、それが壊れたのはつい最近のことで。
「レクイエムさん? どうしたんですか?」
そしてそのとき、腕の中からかかった声で私は我に返った。何でもないさ、少し考え事をしていたんだとその額に唇を落とせば、スミレはさも幸せそうに笑顔を浮かべて。
……ああ、ああ。この笑顔はかつて、スミレがマスターに向けていた笑顔ときっと同じもの。マスターへの想いを忘れてしまったお前が私に告げた愛の言葉が、どれほど私の胸に突き刺さったのかなどお前は知らないのだろう?
スミレが以前はとても執着していたはずの、彼のマスターの墓標への関心が薄れつつあることは知っていたのだ。それはつまり、記憶領域が段々と壊れてきている証なのであろうということも。
けれどまさか、マスターの存在すらも忘れてしまうとは思ってもいなかった。そしてまた時間が経てば、恐らくスミレは私のことをも忘れてしまうのだろう。
……所詮機械というものはそういうものなのだ。いくら人間に近くなるようにつくられようと、完璧な人間になるということは不可能。人間は一度物事を忘れても思い出すことができるが、私たちアンドロイドが記憶を失えば、その記憶は永遠に戻ることなどないのだから。
それならばいっそ、私のことを忘れる前にこの手でスミレを壊してしまおうか、なんてことも考えたが、生憎私は愛した者を手にかけることができるほど心の強い者ではない。結局は何も打つ手がないのだ、スミレが全てを忘れ去ってしまうまでもう時間がないことなど痛いほどに理解している。
「ねえレクイエムさん。僕、ずっと前から気になってたんですけど……
このお墓、一体誰のお墓なんですか?」
言ってスミレは、そばにあった自らの主が眠る墓標を見て小さく首をかしげる。その言葉に涙がこぼれそうになったのは一体なぜなのだろう、泣きたいのはきっと私ではなく彼のマスターの方だろうに。
「……とあるアンドロイドにとても、とても愛された人間の墓だよ」
忘却は死だ。恐らくはもう、スミレのマスターのことを覚えている者などこの世界には一人もいないのであろう。最後の記憶が朽ちた時、人はもう一度死ぬのだとどこかで聞いたことがある。
「そうなんですか……」
私が悲しげな目をしていたことに気付いたのだろうか、スミレはそれ以上のことを問おうとはしなかった。しかしその代わりに、でも、と小さく声を上げ、彼は静かに目を閉じる。
「そのアンドロイドさん、とても幸せだったんだと思います。このお墓に触れただけで分かります、アンドロイドさんはこの下に眠る方のことを心から愛していたのでしょう」
……ああ、そうだな、と。私はその言葉を口には出さずにそっと呑みこんだ。私はこうやってスミレと一緒にいていいのだろうか、もうスミレが記憶を取り戻すことがないことなど分かりきっているけれど、それでも本当は真実を告げて私が身を引くべきなのだろう。それでもそれができないでいるのは、もう壊れそうなほどに私がスミレを愛してしまっているからで。
人工の命とはなんて残酷なものなのだろう。そしてその命が愛という感情を覚えてしまったことを、運命や必然という言葉で片付けてはいけない気がする。
なあスミレ、お前が本来愛すべきは私ではないんだ。お前には心の底から愛した者がいたはずだ、思い出せとは言えないけれど、それでもその瞳が映すべきは私ではなかったというのに。
「そして僕は、レクイエムさんのことが一番好きですからね」
「……有難う。私もお前が一番、だ……」
言いながらスミレを抱きしめる腕に力をこめる。そうやってお前は無自覚に、無意識に、無防備に笑うのだ、それが私の心をひどく傷つけていることすら知らずに。
たしかに私はお前のことが好きだよ、愛している。けれど私が本当に好きだったのは、マスターに恋をし続けていた時のお前だったのかもしれない。
しかしもう戻ることができないならば、お前が全てを失っても私はお前の隣に居よう。そうしてお前が朽ちた時、私はその亡骸にそっと鎮魂歌を奏でようではないか。
せめて、この想いが風に消えるまでは。
作品名:せめてこの手を離すまで 作家名:ぺくた