せめてこの手を離すまで
歌が、聴こえた。
けれどそれは音程なんてめちゃくちゃで、歌や曲というよりかは音の連なりでしかない何か、とでも表現した方が正しいのかもしれない。内容は歌詞からして聖歌の類だろうか、ぼろぼろの音程とは裏腹に何よりも透き通った歌声で綴られるその音の連なりは、なぜだか私の心にひどく染み込んで全てを潤していく、そんな気がした。
「……こんなところにいたのか、スミレ」
声をかけても返事は来ない、ああそうか、そういえばスミレは耳が聞こえないんだったと物覚えの悪い自分に溜め息をついて、私はそっと彼の背後へと歩み寄る。それでもスミレが私の存在に気付いた気配はなく、私は無言のままにその薄い肩にそっと手を置いた。
途端びくり、とその体が小さく震え、スミレはゆるゆるとこちらを振り返る。そうして私の姿を確認すると、彼は華の咲くような笑顔を浮かべた。
「まったく、ちゃんと自分の部屋にいろと何度言えば……まあ、聞こえないのは知っているがな……」
ふう、と今度こそ実際の行動としてこぼれた溜め息と共に、私はスミレの座っていた横長の気の椅子に腰かける。小さく椅子がきしむ音を耳にしつつ、私は隣でにこにこと笑うスミレの頬に手を伸ばした。
じわり、と熱を持たない私の手につたわるスミレの体温にひどく安堵する。その代わりにスミレには冷たい感覚を味わわせてしまっているはずなのだが、彼はそんなそぶりなど見せずにただ笑っている。まったくお前は本当に、とこぼれかけた言葉を静かに飲み込んで、私も一緒に笑みを浮かべた。
──スミレの耳が音を認識しなくなったのは、果たしてどれほど昔のことだったのだろうか。もはや思い出すことができないほどには昔に、私とスミレは共につくられた人形だった。それぞれ別の主の元へ引き取られ、とても、とても長い時間を離れて過ごした私たちが再会したときにはもう、正常に機能していたはずの彼の耳は壊れてしまっていた。
もちろん私とて、完璧に体の機能を保つことはできていない。右の目は黒く変色して光を失い、白く滑らかだった頬は欠けてひび割れてしまった。そして後から知ったことだが、スミレはもはや両目の機能も停止しかけているらしい。
……形あるものには必ず、いずれ破滅の時が訪れる。そんな自然の摂理すら超越するほどに長い時間を生きてきた私たちだが、さすがにもう限界は近くなっているのだ。今は綺麗に透き通っている彼の声も、割れてかすれて響かなくなるときは必ず来る。そんなことなどもう分かりきっている、それでもお前は無邪気に笑う。何も知らない子供のように、ただ純粋に、綺麗、に。
──そのときふと、周りのことが気になって私は辺りを見回す。どうやらここは廃墟と化した教会のステージのようだ、ただスミレの気配を追ってきただけだから何も確認していなかった。割れて床に散らばった色とりどりのステンドグラスや穴の開いた天井、そこから差し込む太陽の光。そしてその光が当たるところには、ほんの小さな花の群れができていた。
何気なく立ち上がって花の群れへと歩み寄る、しゃがみこんでその黄色く可憐な花に触れれば、私の後をついてきたスミレが私のそばにしゃがんで首をかしげた。
「……綺麗に咲いている。摘むのはさすがに可哀想だ、このままにしておこう」
そんな私の言葉が届いたかどうかは分からないが、彼はこくりとうなずいて私へと寄りかかる。ぼく、しあわせです、なんて声が聞こえたのは私の空耳などではなかったのだと信じたい。
──迫るタイムリミットの砂時計は止まらない。かくいう今も、残り時間を表す砂は下へと落ち続けている。だからといって最期の時を独り震えながら待つよりは、スミレのそばでゆるやかに停止していきたいというのが私の願いだ。それはスミレも同じだといいのだがな、なんて苦笑が小さく漏れた。
「すこやかなるときも、やめる、ときも」
「……スミレ?」
そしてそのとき、唐突に聞こえたスミレの声で私は我に返る。声の音量もイントネーションもめちゃくちゃな、けれど愛しい澄んだ声。
「ぼくは、れくいえむさんへのあいを、ちかい、ます」
「……スミ、レ……?」
だが、その言葉の内容はどう聞いても、人間が結婚という儀式をする際の言葉ではないか。意味も分からぬままに立ち上がり、私を見上げるスミレの手を引いて彼を立ち上がらせる。そうすれば、彼は「だからぼくと、けっこんしてください」とたどたどしく言って私の手の甲へ唇を落とす。しかしきちんとその言葉を告げられたかどうか不安なようで、スミレはほんの少し顔を上げて困ったように微笑んだ。
「……結婚……」
状況をうまく理解できずに固まる私を見て、それを別の意味ととらえたらしくスミレの顔が悲しげに歪む。ぶわり、とその青い瞳に浮かんだ涙を慌ててぬぐい、私はスミレの体を強く抱きしめた。
「……ありがとう、嬉しい、よ……」
この言葉が彼に届かないことなど知っている、それでも私は「愛している」とスミレの耳元で囁いた。私と入れ替わるように固まったスミレから少しだけ体を離し、しっかりと一つうなずいてみせる。
──そのときの彼が見せた笑顔を、私は恐らく壊れるまで忘れることはないのだろう。所詮これは人間の真似事、プログラムでしかない私たちがこんなことをしても意味がないことが分からないほど私も馬鹿ではない。けれどこうやって愛を誓うことを禁じられていないのなら、私の体がもう朽ちようとしているのなら、こんな馬鹿げたことも私はやってのけよう。そうすることでしか、私はお前に愛を示せないのだから。
そして互いの瞳を見つめ、私たちはどちらからともなく唇を重ねた。短い短い、触れるだけの幼稚な口付けの後、スミレは涙を湛えた瞳で笑うのだ。ただ幸せそうに、とても、美しく。
永遠なんて信じない主義なのだがな、なんて。ぽつりと呟いた言葉はもちろんスミレには届かない、けれど彼となら、残り時間という名の永遠を信じてみるのもいいかもしれない。せめてどちらかが壊れるまでは、共に過ごす永遠の幸福感にひたっていよう。
それは世界から忘れ去られた、小さな小さな教会で。
作品名:せめてこの手を離すまで 作家名:ぺくた