せめてこの手を離すまで
──そしてそれから、どれだけの間走っていただろうか。私は花畑へとたどり着き足を止める、そこには昇り始めたばかりの太陽の光に照らされて、空をふり仰ぐスミレの姿があった。
「……スミレ……?」
声をかければ、スミレはこちらをゆっくりと振り返って笑う。その腕の中に抱えられていた植木鉢の中にはもう、すみれの花はどこにも見えなかった。
──ぞわぁっ、と。そのとき唐突に背中を悪寒が駆け抜ける。ああそうか、スミレはすみれの妖精だから。すみれの花が枯れてしまえばもう、存在を、実体を保っていられなく──
ごめん ね
ぼく きえる みたいだ
「……っ!?」
そして私が全てを悟る前に、声を発することができないはずのスミレの声が聞こえた、気がした。鈴の転がるような声、とはまさにこのことか、と思えるほどに綺麗な、透き通った声。
れくいえむ さん のこと すきでした
できれば ずっとそばに いたかったけど
「す、みれ……?」
はなが かれちゃった から
もう むりなんだ
ざあっ、と、スミレの声をかき消すように風が吹く。一昨日のように舞い散る花弁の中で笑うその姿は、さながら一枚の絵画のように。
しかし今のスミレの表情はとても悲しげだ、私は震える足をどうにか動かして彼の傍へと歩み寄る。
「スミレ、すみ、れ……」
ごめん ね ごめん なさい
もう いかなくちゃ
「スミ……」
言いかけた、私の言葉を遮って。そのとき吹いた一際強い風で一斉に花弁が散る、刹那感じた既視感は、きっと私の気のせいではない。
伸ばした腕は、何にも触れず虚空を掴む。花弁で視界が遮られ、私は思わず目をつぶり──
ふわり、と、何かに抱きしめられたような気がした。
さよなら ぼくの だれよりも いとしい ひと
私が再び目を開けたときには、そこには植木鉢が一つ置いてあるだけの何もない空間が広がっていた。全ての花弁を散らしたすみれたちは消滅し、ただ広い大地が広がっているだけの、無機質な──
自分が絶叫していることに気付いたのは、果たしていつのことだっただろうか。
涙を流す、という行為自体は知っていた。けれど私にはそんな機能などないと思っていたから。私はずっと、泣くことを知らずに生きてきたけれど。
我に返ったときにはもう、私は植木鉢を抱えて家の中に戻ってきていた。そしてそれをいつもの棚の上に置いて、自らのベッドの上で枕に顔をうずめて。
まさか泣くことができるなど。まさか、一人に戻ってしまうなど。誰がそれらのことを予想できただろうか、もう頭が混乱して何も分からない。
そしてしばらく泣いているうちにいつの間にか眠ってしまっていたらしく、目が覚めたときにはもう空は夕方の色に染まりつつあった。私は涙で濡れた枕からのろのろと顔を上げ、しかしすぐにまた突っ伏してしまう。
もう、生きる気力なんてものは残っていなかった。どうして私たちは死ぬことができないのだろう、システムに何か不具合があって記憶が初期化される、ということが本当に、本当に稀に起こることがあるらしいが、今それが起こればいいのにと。そんなことを考えている間に、私は再び眠りに落ちていた。
少し遠慮気味に、それでもしっかりとした力具合で体を揺さぶられている。小さく唸りながら重い瞼をどうにか持ち上げて、何度か目の開閉を繰り返しつつ起き上がれば、そこには見慣れた格好をした青い瞳と髪を持つ妖精が、いた。
「……ああ……おはよう、スミ……」
既視感。
言いかけた言葉を断ち切って、私はそろそろと起き上がる。見ればそこでは、きょとんとした表情を浮かべた妖精がこちらを見つめていて。
「……スミレ……?」
どうして分かったのですか、とでも言わんばかりの表情でうなずく「スミレ」は、しかし私が愛したスミレとは少し違う気がした。そのときふと浮かんだとある予感に従って植木鉢の方を見れば、そこには小さな芽が顔を出していて。
……ああ、そうか、と。この電子空間の中、花は水をやらなくても枯れることはないが当たり前に寿命は来る。しおれきってしまえばその花は消滅し、自動的に一粒だけ種ができてまた新しく芽吹く。つまりはあの花に宿っていた「スミレ」はもうどこにもいないけれど、今芽生えたあの花に宿る「スミレ」が今ここにいるのか。
そっと腕を伸ばして、私は「スミレ」を抱き寄せる。突然のことに慌てたようにもがく彼をただ強く抱きしめ、私はまたひとすじだけ、涙を流した。
お前はもういなくても、お前の残していった次の「スミレ」が今ここにいる。それならば私は、何度でも「お前」とはじめましてを繰り返そう。そうしてまた「お前」を愛し、そして別れを告げて。
「……好きだ、スミレ」
そうして私が壊れてしまうまで、それをいつまでも、いつまでも続けよう。それがお前を愛した証となるならば。
何度でも、何度でも。
作品名:せめてこの手を離すまで 作家名:ぺくた