蝙蝠、家路を辿る。
あれからどのくらいの月日が経過したのだろう。
街角のとあるカフェでブルース・ウェインはコーヒーを口にしながらふと、考えてみた。
暫くしてから、バットマンという仮面を被るのをやめ、ゴッサムシティを離れてから、かれこれもう1年近く経とうとしていた事に気がついた。
闇の騎士としての役目を終えたブルースはイタリアのフィレンツェへと住居を移し、かつてキャットウーマンとして活動していたセリーナ・カイルと今では一緒に暮らしている。彼女との生活はそれなりに充実しているし自分もゴッサムでバットマンとして活動していた頃より、今の方が安定していると思える。
ただ、それが恋人や人生の伴侶としてかと訊かれれば首を傾げるであろう。更に言えば元怪盗でもある彼女の事だ。いつ財産だけ奪われて1人取り残されたりしてもおかしくない。だからあまり深く心にはのめり込まないようにしている。
とは言え、ブルースは(きっと彼女もそうだろう)2人でいる時間が心地好く思うのは事実で実際、あれからは何も起きていない。
これといって何か特別な事があるわけでもない。だからこそ平穏に過ごせているのかもしれない。そしてこれから先もこうやって日々は続いていくんだろうと。
ある日、セリーナがこんな事を言い出すまでは。
「家には戻らないの?」
コーヒーを飲んでいる途中のブルースは濃い茶色の水面から目の前の彼女へと視線を移した。
微かにウェーブしている髪がそよ風でふわっと揺れる。彼女特有のはっきりとした目と大きく、ふっくらとした紅色の唇。赤々しい口端が僅かに吊り上がる。
「どうして? 僕はもう『この世にはいない』のに?」
「変装していけばいいじゃない。貴方だって本当は恋しい筈よ。たまには故郷に戻って、癒されるのも悪くないんじゃないかしら」
気分転換にでも、とセリーナはアイスラテを口にしながら付け加える。とは言え、元怪盗である彼女の事だ。その言葉を鵜呑みには出来ないし、怪しさも否めない。グラスの中で半ば溶け始めている、氷とラテが混ざり合っていくのを見届けた後、ブルースは再びセリーナへと視線を戻した。
「僕がいない間、盗みはしないって約束できるか?」
「さぁ、それは保証できないけど」
悪戯な笑みで彼女が返す。予想通りの返事だ。勿論、真意はわからない。
しかし、一方では本当に戻ってみようとも薄々、考えていた。
彼女の言う通り、久々に故郷の空気を吸っていくのも悪くないと思ったのと、久しぶりに逢いたい相手がいたからだ。
***
1ヶ月後――ウェイン邸に足を運ぶのは久々で、ほんの数年前まで我が家だったのに、まるで他人の家に行くような感じがして少しぎこちなかった。
結局セリーナに勧められた変装は黒いコートと帽子を深く被るぐらいに止まった。別にウェイン邸自体、都会に建てているわけでもないという理由からだった。
そのウェイン邸はというと、今ではトーマス&マーサ・ウェイン記念孤児院として、身寄りのない子供達への居場所となっている。屋敷前で楽しそうな声が聞こえてくる。庭で勢いよく走り回り、追いかけっこしている子供達。その無垢な姿に自然と笑みが溢れる。
屋敷のドアを開けようとした途端、随分と懐かしい声に呼ばれた気がした。
「ブルース様…?」
声のした方へと振り向く。きょとんとした、目を大きく見開かせているその顔は――元執事のアルフレッドだった。
彼が正しく、ブルースが逢いたいと思っていた人物だったのだ。
アルフレッドとは、別れ際ですっきりとしない最後になってしまったので、ブルースはどうしても様子を見たかったのだ。
「…久しぶり、アルフレッド」
未だ呆けているアルフレッドにブルースは帽子を外し、笑顔をつくって安心させる。
するとアルフレッドの方から、こちらに歩み寄ってきて確かめるようにブルースを頭の天辺から爪先までまじまじと見始めた。子供の頃から見ていたが、こんなに驚いたアルフレッドの姿を目にするのは初めてだった。
「…中に入っていいかな」
慌てた様子の元執事にもう一度優しく微笑みかける。
「ゆっくり話がしたいんだ」
***
屋敷の中でも少人の幼い子供達がきゃっきゃと走り回っていた。しかし分かれている部屋を目で追っていくと、大人しそうに読書をしたり、友達とお喋りをしたりしている子もちらほらといた。そんな、周辺をきょろきょろと見回しているブルースの様子を振り返ってすらいないのに見通したらしい、アルフレッドが「色々な子がいますでしょう」と呟く。
上の階の個室だった場所はブルースが去って以降は客間を兼ねた執務室のような役割を果たしているらしく、唯一子供達が立ち入ることのできない部屋になっていた。
内装もがらりと変わり、かつて寛げたところが、今では威厳のある場所となっていた。
堅苦しくなったなぁ、と冗談っぽく笑いながらブルースが呟くと今はもうここも立派な孤児院ですからね、とアルフレッドは返した。
部屋の真ん中辺りに設置されている横長のテーブルに向かい合わせになっている、これまた横に長いソファーが2つ。
アルフレッドから「どうぞ、お掛けになってください」と言われ、扉に近い方のソファーにブルースが腰掛けた。
「今、紅茶を用意しますね」
アルフレッドは窓際の棚の上にある箱からティーバッグを手にすると、下の段にある食器入れからティーカップとソーサーを取り出し、ティーバッグをカップの中に入れた。ティーバッグを詰め合わせた箱の隣にあるポットにカップを近づけ、お湯を注ぐ。
それをひとつのカップずつにしていき注ぎ終わると、棚から再び何かを添えた。紅茶入りのティーカップを2つ持ち、アルフレッドはへと戻ってきた。どうやら先程、受け皿の傍に置いたものは厚めのクッキー2枚だったようだ。
「ありがとう」と口にしながらブルースはカップの中に視線を落とす。暗い赤に沈むティーバッグがカップの内側でゆらゆらと寄り添う。
「最近は来客の数が多いので、すぐにさっと出来る手軽なもので済ませているんです。しかし、インスタントだからと言って甘くみてはいけません。最近は本格的な味の物も増えてきていますから。昔のようにメイドと美女をつれて優雅にかつ、大胆に戯れるお茶会、なんて事は出来ませんよ」
「わかっているさ。それにあの時は僕も若かった。流石に今はしないよ」
アルフレッドも向かい側のソファーに腰掛ける。それからさっき自身で淹れた紅茶を一口飲んだ。
「君が院長なのかい?」
「一応、ですが。結構大変ですよ? まぁ、経費等金銭面に関してはウェイン家のお力もあってどうにかなりますが。本当に大変なのは子供達の世話です。個性が強い子が多かったりするので色々と手間がかかったりします」
アルフレッドが溜め息混じりに日々の苦労話をしている途中、すっかり水色が濃くなった紅茶を口にする。ティーバッグを入れっぱなしにしていたせいで味も渋味が増していたが悪くない。
「ブルース様も子を持つとわかりますよ。どれだけ大変かが。実際始めて、幼少時代のあなた様がどれくらい育てやすかったか…」
街角のとあるカフェでブルース・ウェインはコーヒーを口にしながらふと、考えてみた。
暫くしてから、バットマンという仮面を被るのをやめ、ゴッサムシティを離れてから、かれこれもう1年近く経とうとしていた事に気がついた。
闇の騎士としての役目を終えたブルースはイタリアのフィレンツェへと住居を移し、かつてキャットウーマンとして活動していたセリーナ・カイルと今では一緒に暮らしている。彼女との生活はそれなりに充実しているし自分もゴッサムでバットマンとして活動していた頃より、今の方が安定していると思える。
ただ、それが恋人や人生の伴侶としてかと訊かれれば首を傾げるであろう。更に言えば元怪盗でもある彼女の事だ。いつ財産だけ奪われて1人取り残されたりしてもおかしくない。だからあまり深く心にはのめり込まないようにしている。
とは言え、ブルースは(きっと彼女もそうだろう)2人でいる時間が心地好く思うのは事実で実際、あれからは何も起きていない。
これといって何か特別な事があるわけでもない。だからこそ平穏に過ごせているのかもしれない。そしてこれから先もこうやって日々は続いていくんだろうと。
ある日、セリーナがこんな事を言い出すまでは。
「家には戻らないの?」
コーヒーを飲んでいる途中のブルースは濃い茶色の水面から目の前の彼女へと視線を移した。
微かにウェーブしている髪がそよ風でふわっと揺れる。彼女特有のはっきりとした目と大きく、ふっくらとした紅色の唇。赤々しい口端が僅かに吊り上がる。
「どうして? 僕はもう『この世にはいない』のに?」
「変装していけばいいじゃない。貴方だって本当は恋しい筈よ。たまには故郷に戻って、癒されるのも悪くないんじゃないかしら」
気分転換にでも、とセリーナはアイスラテを口にしながら付け加える。とは言え、元怪盗である彼女の事だ。その言葉を鵜呑みには出来ないし、怪しさも否めない。グラスの中で半ば溶け始めている、氷とラテが混ざり合っていくのを見届けた後、ブルースは再びセリーナへと視線を戻した。
「僕がいない間、盗みはしないって約束できるか?」
「さぁ、それは保証できないけど」
悪戯な笑みで彼女が返す。予想通りの返事だ。勿論、真意はわからない。
しかし、一方では本当に戻ってみようとも薄々、考えていた。
彼女の言う通り、久々に故郷の空気を吸っていくのも悪くないと思ったのと、久しぶりに逢いたい相手がいたからだ。
***
1ヶ月後――ウェイン邸に足を運ぶのは久々で、ほんの数年前まで我が家だったのに、まるで他人の家に行くような感じがして少しぎこちなかった。
結局セリーナに勧められた変装は黒いコートと帽子を深く被るぐらいに止まった。別にウェイン邸自体、都会に建てているわけでもないという理由からだった。
そのウェイン邸はというと、今ではトーマス&マーサ・ウェイン記念孤児院として、身寄りのない子供達への居場所となっている。屋敷前で楽しそうな声が聞こえてくる。庭で勢いよく走り回り、追いかけっこしている子供達。その無垢な姿に自然と笑みが溢れる。
屋敷のドアを開けようとした途端、随分と懐かしい声に呼ばれた気がした。
「ブルース様…?」
声のした方へと振り向く。きょとんとした、目を大きく見開かせているその顔は――元執事のアルフレッドだった。
彼が正しく、ブルースが逢いたいと思っていた人物だったのだ。
アルフレッドとは、別れ際ですっきりとしない最後になってしまったので、ブルースはどうしても様子を見たかったのだ。
「…久しぶり、アルフレッド」
未だ呆けているアルフレッドにブルースは帽子を外し、笑顔をつくって安心させる。
するとアルフレッドの方から、こちらに歩み寄ってきて確かめるようにブルースを頭の天辺から爪先までまじまじと見始めた。子供の頃から見ていたが、こんなに驚いたアルフレッドの姿を目にするのは初めてだった。
「…中に入っていいかな」
慌てた様子の元執事にもう一度優しく微笑みかける。
「ゆっくり話がしたいんだ」
***
屋敷の中でも少人の幼い子供達がきゃっきゃと走り回っていた。しかし分かれている部屋を目で追っていくと、大人しそうに読書をしたり、友達とお喋りをしたりしている子もちらほらといた。そんな、周辺をきょろきょろと見回しているブルースの様子を振り返ってすらいないのに見通したらしい、アルフレッドが「色々な子がいますでしょう」と呟く。
上の階の個室だった場所はブルースが去って以降は客間を兼ねた執務室のような役割を果たしているらしく、唯一子供達が立ち入ることのできない部屋になっていた。
内装もがらりと変わり、かつて寛げたところが、今では威厳のある場所となっていた。
堅苦しくなったなぁ、と冗談っぽく笑いながらブルースが呟くと今はもうここも立派な孤児院ですからね、とアルフレッドは返した。
部屋の真ん中辺りに設置されている横長のテーブルに向かい合わせになっている、これまた横に長いソファーが2つ。
アルフレッドから「どうぞ、お掛けになってください」と言われ、扉に近い方のソファーにブルースが腰掛けた。
「今、紅茶を用意しますね」
アルフレッドは窓際の棚の上にある箱からティーバッグを手にすると、下の段にある食器入れからティーカップとソーサーを取り出し、ティーバッグをカップの中に入れた。ティーバッグを詰め合わせた箱の隣にあるポットにカップを近づけ、お湯を注ぐ。
それをひとつのカップずつにしていき注ぎ終わると、棚から再び何かを添えた。紅茶入りのティーカップを2つ持ち、アルフレッドはへと戻ってきた。どうやら先程、受け皿の傍に置いたものは厚めのクッキー2枚だったようだ。
「ありがとう」と口にしながらブルースはカップの中に視線を落とす。暗い赤に沈むティーバッグがカップの内側でゆらゆらと寄り添う。
「最近は来客の数が多いので、すぐにさっと出来る手軽なもので済ませているんです。しかし、インスタントだからと言って甘くみてはいけません。最近は本格的な味の物も増えてきていますから。昔のようにメイドと美女をつれて優雅にかつ、大胆に戯れるお茶会、なんて事は出来ませんよ」
「わかっているさ。それにあの時は僕も若かった。流石に今はしないよ」
アルフレッドも向かい側のソファーに腰掛ける。それからさっき自身で淹れた紅茶を一口飲んだ。
「君が院長なのかい?」
「一応、ですが。結構大変ですよ? まぁ、経費等金銭面に関してはウェイン家のお力もあってどうにかなりますが。本当に大変なのは子供達の世話です。個性が強い子が多かったりするので色々と手間がかかったりします」
アルフレッドが溜め息混じりに日々の苦労話をしている途中、すっかり水色が濃くなった紅茶を口にする。ティーバッグを入れっぱなしにしていたせいで味も渋味が増していたが悪くない。
「ブルース様も子を持つとわかりますよ。どれだけ大変かが。実際始めて、幼少時代のあなた様がどれくらい育てやすかったか…」