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そして、駒鳥は飛び立つ。

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ジョン・ブレイクがここトーマス&マーサ・ウェイン記念孤児院(元ウェイン邸宅)――正確に言えばその地下室という方が正しいのかもしれない――に住み着くようになってからもう1年と6ヶ月になろうとしていた。
 1年半前――かつてゴッサムシティを救った沈黙の闇の騎士がついにこの世から消えた。
 あの時、誰もがそう思ったに違いない。勿論、ジョンもそう思っていた。
 今日この時までは。



***



 いつものように昼食のハムとレタスのサンドイッチを片手に犯罪者の手掛かりを追うように、資料やらなんやらを集めている最中、執事であるアルフレッドが来た。彼は特別なお客様が来ていらっしゃいますよ、と一言言い残して再び上に戻った。
 ジョンは考えてみる。一体誰なんだろう、と。
 しかし、次にその来客を目にした瞬間、そんな軽い考えは頭の隅からどこかへ吹き飛んでしまった。



 何故ならそれは1年半前に死んだ筈の闇の騎士だったのだから。



「ブルース…ウェイン!?」



 思わず目を見開く。信じられない。だって彼はあの時、死んだ筈なのに――。
 ジョンが目をぱちくりさせている間、ブルースは少し大袈裟に両手を広げて見せ、口角を上げたまま答えた。

「正真正銘、本物の『ブルース・ウェイン』さ」
「…どうしてっ…貴方はあの時、爆発に巻き込まれて死んだ筈じゃ、」
「事前に脱出機能のついた装置を準備していたんだ」

 「だから、今こうして生きていられるのもそのおかげかな。あれがなかったら今頃ここにはいないだろうし」と付け足しながら。


 だとすれば、あの噂は本当だったのだろうか。壊された筈のバットシグナルが元通りになっていたり、その事から一部の警官達の間でも暫く「実はバットマンは身を潜めているだけでどこかで生きているのではないか」という噂が流れていた。そんな話を先日、久々に会ったゴードンから聞いたのを思い出す。
 加えてアルフレッドから以前聞いた話で確かフォックスという人物がバットマンの装置やら武器を発明していたと言っていた記憶がある。多分、それなのだろう。そう考えてみれば生きてても不思議ではない。
 取り敢えずは納得したがそれでも未だ、目の前の人物が生きている事にジョンは驚きを隠せないままでいた。
 そんな突然の事に突っ立ったまま硬直したジョンを余所にブルースはありとあらゆる機材の方へとざっと回り、触れていった。

「ああ、これは確かバットモービルの試作品に使った装置だな。これ、何だかんだ言ってフォックスがかなり気に入ってたなぁ。あっ、バットラングまで…こうして見ると随分と懐かしいな。おっ、これもフォックスが造ったやつだ…」
「…今までどこにいたんですか?」
「ここ1年と少しはフィレンツェにね」
「ふぃ…フィレンツェってイタリアの!?」

 益々訳がわからなくなる。何故、わざわざ国外を離れて全く言葉の通じない異国の地に?

「結構良い逃げ場だったし何よりバットマンを誰一人知らないっていうから、第二の人生を始めるならここでも悪くないかと思ったんだ。イタリア語は話せる事には話せるんだけどどうもあそこの発音は僕には苦手みたいでね。ほとんど通訳に任せてる状態かな」
「通訳?」
「そう、とびきり美人の、ね」

 最後のとびきり美人の、という台詞が若干引っ掛からなくもなかったが元プレイボーイである彼の事だ。イタリアともなればそれなりに女性も集まってくるだろうし、敢えて深くは気にしないようにした。


 一通り、機材を見終えた後、ブルースはジョンがさっきまで昼食をとっていたモニター付きの作業場が視界に入ったらしく今度はそこに興味を持ち始めた。

「これはなんだ?」

 言ったブルースの方へと目を向ける。彼の指差している物が新聞紙の切り取り後だとジョンは気付いた。
 新聞紙の切り取り――それはジョンがまだ孤児院に居た幼い頃から集めていたものだった。
 切り取った記事の内容は全てブルース・ウェインやバットマンの事ばかり。幼少時代に彼の両親が何者かによって射殺された事から表の顔である億万長者としてのブルース・ウェイン、プレイボーイとしての一面も併せ持つ女性との数々のスキャンダル、そして裏の顔(ある意味では真の顔と言っても過言ではないが)にあたるバットマンとしての活躍諸々。そして作業机の上に資料と一緒に積み重なっている新聞紙の更に上に置かれている記事は恐らく、1年半前になる最後のものだ。バットマンが街を救い、犠牲となった日だ。
 表面上では勿論、死んだ事になっている。本音を言えば今だって半信半疑な状態なのだ。ジョンはブルースの許へと歩み寄り、1年半前の記事を手に取ってみた。
 ――『バットマン、爆風の彼方へと飲み込まれ命を落とす。』――当時の新聞の見出しだ。
 ブルースが覗き込む。

「あの時、誰もがバットマンはこの世から消えたんだと思っていた…ゴッサムを、静かに見守っていた英雄がいなくなってしまったって…きっと」

 独り言のように呟いたジョンの言葉をブルースは首を横に振った。

「英雄ではなかったよ」

 真っ直ぐと記事を見つめる彼の横顔に目がいく。複雑な、何か暗雲としたものを抱えたような表情。

「本当の英雄は人前でも堂々と悪を裁ける者だよ」

 どこか寂しさを供えた顔色が出る。そして堂々と悪を裁けるものとはきっとハーヴィー・デントの事を指しているのだろうとジョンは察した。確かにハーヴィーもゴッサムシティを救った1人だ。裏方で活躍するバットマンとは違い公を中心として悪党を裁いていた。彼もまた不運な死を遂げてしまったが、生前の彼の行いからゴッサム市民は『光の騎士』という風に称した。
 しかし、1年半前にその彼の死の裏に隠された衝撃の内容がテレビ越しに明かされたのを、ジョンは見逃さなかった。
 自身の武器だった正義を失い、信じられなくなった光の騎士に闇の騎士が終止符を打ったのだ。
 ただ、表では何故かバットマンが『殺した』という事になっていたのだ。本当は『救った』のに。自らの手で自らに濡れ衣を着せたのだ。
 しかし自分を犠牲にしてまでもそうやって他人に最善を尽くした闇の騎士にジョンはこれが『本当の英雄』だと確かに信じる事ができた。
 それなのに彼、ブルースはそれを認めようとしない。例えそれが人目につかないようなところだろうと、そもそも場所なんて関係ないのに――。

「だけど…」

 握る拳が強くなる。

「貴方がした事はこの街、ゴッサムを救ったんだ。命と引き換えに…それは決して無駄じゃない!」

 犠牲になってまでもそうした彼を、英雄じゃないなんて思うことがおかしい。少なくとも、汚れを知らない純粋な少年少女達はそう思ったに違いない。

 しかし彼は宥めるようにして笑ってみせた。どこか、影を背負ったような――。

「いずれ…君にもわかる時が来る」

 そうなのだろうか。それでも自分の気持ちは揺らぐ事はないとジョンは確信していた。きっとこの人はまだ今までの、過去の自分を認めてあげられないだけなんだ。許せないだけなんだ。どんな英雄にでも苦悩は付き物であって決して悪い事ではないのに。そこも含めて自分を認め、許せる日が来るといいな。