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ひとつのいのち、真夏の光

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「おい釜爺!」
ボイラー室の背の低い引き戸が、いつもより乱暴な音を立てて開いた。
「ハクが八つ裂きにされるってどういうことだよ!?」
リンの悲痛な色を帯びた声が響く。
床に叩きつけられるようにして置かれた木桶が、ガダンと耳障りな音を立てた。

千尋が元の世界に帰ってから、こちらの世界では数週間も経っていなかった。
一陣の風のようにこちらの世界へ飛び込んできた人間の女の子「千」は、油屋に妙な客ばかりを招き入れては竜巻のように駆けずり回り、最後にはまた風のようにこの世界を去っていった。
油屋に大きな変化を吹き込んだ千を、そこの人々がにわかに忘れられるわけもなかった。
千の影響をいちばん受けたのは坊だ。
あれからは自分の足で立つようになり、癇癪を起こす回数も減って、最近では湯婆婆に「魔法を教わりたい」と言い出したとの噂も聞いた。
息子の成長に、近頃は上機嫌な湯婆婆だった。
そんな、少し穏やかになった油屋に、不穏な噂が流れ出したのはここ数日のことだ。
――ハク様が八つ裂きにされてしまうんですって――
出所は不明、理由もわからない。だけど、この信じがたいニュースは瞬く間に油屋中に広まった。

釜爺の薬草を挽く手が止まる。が、口を開こうとはしない。
沈黙が流れる。
ただならぬ空気に、ススワタリたちが何事かと集まりはじめる。
「おい……おい嘘だろ……? ハクはあっちの世界に帰れるんじゃねぇのかよ!帰って千に会うって約束したんじゃねえのかよ!
沈黙に耐えかねてリンが叫ぶ。
釜爺が背中だけでため息をつく。
振り向かないまま、重い声でぼそぼそと喋りはじめた。
「……わしも、詳しいことは知らん。だが……」
「なんだよ……?」
「お前さんも覚えているじゃろう。千がここに迷い込んできた時の大騒ぎを。人間がこっちの世界に入ることは大変なことだが、元の世界に帰すのも、同じくらい大変なんじゃ」
「つまり……その手助けをしたハクが……罰を受けるってことか……?」
釜爺は、黙ってゆっくりと首を縦に振った。
「は……」
リンが気の抜けた声を漏らし、そのままぺたりと床に座り込んだ。
「規則は規則だ、なんて、湯婆婆の言いそうなことじゃのう」
釜爺が苦々しく吐き捨てる。
背中の向こうの表情は見えない。
「あんまりだろ……そんなの……」
俯いたリンの頭に、釜爺の長い腕が伸びて、そっと撫でた。


陽も落ちて、夕日に伸びた影法師が薄い闇に溶ける頃。
石蛙は水を吐き出し、小川は海に変わる。
怪しげなレストラン街の赤提灯が次々に、ぼう、と灯り、夜が来たことを告げる。
赤塗の橋の先の、一際大きくて華やかな建物 ――油屋にも明かりが灯り、橋は疲れを癒しに訪れた神々でごった返した。

この時間の油屋は大忙しだ。
そこかしこが、不思議な夜の喧騒に満ち溢れている。
お客様をお風呂にご案内する女中や、宴会の席を整える蛙や、お食事を運んで走り回る少女。
その中にリンはいた。豪華なお膳がいくつも載ったお盆を抱えて、お座敷の並ぶ廊下を歩いている。
吹き抜けに面した所を通ったとき、ふと、見慣れた影を視界に捉えた気がした。
吹き抜けの向こう側、湯婆婆のいる「天」から降りるエレベーターに、一瞬だけおかっぱが見えた。
――ハクだ。
ハク一人を乗せたエレベーターは、リンのいる階の二つ下で止まった。
エレベーターを降りてどこかへ向かうハクの姿を、リンはその勝気な瞳でぐっと睨み付けた。
「ごめんこれちょっとやっといて!」
近くにいた顔馴染みの青蛙にお盆を押し付け、持ち前の瞬発力で廊下を走り抜ける。
「お、おい!どこ行くんだ!」
背後から聞こえる青蛙の怒声にも耳を貸さず、ハクのいる階まで駆けた。

人ごみをすり抜けエレベーターを乗り継ぎ、ようやくハクの背中を掴まえたのは、庭園へ続く裏口の前だった。
人気も無く、夜の喧騒も聞こえないこの場所に、リンの荒い息だけが響く。
白い水干の左肩を掴んだ手を、力任せにぐい、と引っ張る。
おかっぱが揺れ、二つの翡翠色の瞳と視線が合う。こちらは息一つ乱れていない。
「何の御用ですか」
肩を掴むリンの手も振り払わずに、抑揚の無い声でハクが訊ねる。
その手を自ら払い、感情に任せてリンが叫ぶ。
「おめぇ八つ裂きにされるってどういうことだよ!? 元の名前も取り戻して湯婆婆の弟子もやめたんだろ? だったらさっさと逃げ出して千に会いに行けばいいじゃねぇかよ!」
勢いで放たれたリンの声が木霊して、わずかな沈黙が二人を包んだ。
二つの翡翠には、何の感情も浮かんでいない。
ぽつりと、だけども諭すような口調で、ハクが呟いた。
「あちらの世界に、私の帰る場所はありません」
そして身体をこちらに向け、先程よりもはっきりとした声音で続けた。
「ここにいる限り、ここでの掟には従わなければならない。これは全て私の責任なんです」
「んじゃあおめぇのあの約束は嘘だったってのか!?」
リンの瞳が、怒りにカッと見開かれた。
右腕を伸ばし、白い水干の胸ぐらを掴んで引き寄せる。
リンの黒い瞳と、ハクの翡翠色の瞳がかち合った。
「ああでも言わないと、やさしい千尋は安心して帰れないでしょう」
「それが千のためになると思ってんのかよ!? だいたい、帰る場所がねぇってのも言い訳だろうが! そんなのどうにでも……」
「千尋は!」
リンの捲し立てる怒号を、ハクの凛とした声が制した。
「千尋はもうこちらの世界のことを覚えていない! あちらの世界に帰るときに、こちらの記憶は全て消されることになっている! 私のことも、あなたのことも、釜爺さんのことも、千尋は覚えていないんだ!」
リンの瞳が、驚愕の色に染まった。
「だから、もう……帰る意味なんて……無いんだ」
ぼそりと言い放ったハクの声は、諦念そのものだった。
リンの瞳に、みるみる内に涙が溜まる。
だが、がしりと胸ぐらを掴み直し、涙を散らして叫んだ。
「覚えていようが覚えていまいが関係ねえ! おめぇだって、自分の名前は忘れてたくせに千のことは覚えてたじゃねえかよ! 千だっておめぇを覚えてたじゃねえか! なのに、みすみす約束破るような真似しちまってもいいってのかッ!」
翡翠色の瞳は、まっすぐにこちらを見据えている。
その目尻が、微かに光った気がした。
思わず、はっと息を呑むリン。
無意識に緩んだ右手が、白い水干をずるりと放した。
乱れた水干の胸元をぎゅっと掴み、肩で数度息をつくハク。
そのままくるりと踵を返し、裏口を開けて出て行く。
安っぽい木の引き戸が大きな音を立てて閉じ、リンはそこに一人取り残された。
つぅ、と一筋の涙がリンの頬を伝う。
「千は……千はオレを……覚えてないのかよ……」
涙に濡れた声は、静寂に吸い込まれた。
脚の力が抜け、ゆっくりとその場にしゃがみ込む。
膝を抱えた肩は、小さく震えていた。


真夜中の空にぽっかりと穴が開いているような、大きくて白い満月が浮かんでいた。
油屋から橋の前に続いて、人だかりができている。
だが、その中には、客の神々の姿は見当たらない。
烏帽子を被った男衆や、浴衣の前を大きくはだけた女中、紅白の袴を着た女郎 ――皆が皆、油屋の従業員だった。
橋の中央に、二本の大きな柱がそびえている。