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ひとつのいのち、真夏の光

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柱の頂点には大きな滑車が付いていて、それぞれに太い縄が掛けられていた。縄の先には小さめの輪が作られている。
ただそれだけの装置のはずなのに、なんとも不気味な、禍禍しい空気を醸し出している。
従業員たちは、恐怖と少しの好奇が入り交じった視線でそれを見上げ、ひっきりなしに言葉を交わし合っていた。
満月が、二本の柱の間から、見下ろしていた。
不意に、柱の向こう側に人陰が現れた。
草履の音を響かせて、こちらに向かってくる。
見物人たちもそれに気づき、次々と口を閉じる。
辺りは、昼間のように静まり返った。
女中の一人が、「ハク様……」と悲哀に満ちた声を漏らした。
月明かりの下に、白い肌と翡翠の瞳が浮かぶ。
しっかりとした足取りで橋の中央まで歩み寄り、二本の柱の間で立ち止まる。
見物人たちは静まり返ったままだ。
夜風が吹いて、空中で布が広がる音がした。
夜空に青い花が咲いたか、と見紛えたが、くるくると旋回しながら橋の欄干に降り立ったのは湯婆婆だった。
佇むハクの姿を一瞥し、口の中で、
「ふん。ようやっと来たかね」
と呟く。
それから、人だかりをぎろりと見回し、
「男衆! さっさとやんな!」
と声を張り上げた。
人の群れの中から「はっ」と応える声がし、黄金色の着物を着た数人の男がハクに駆け寄る。
垂れ下がった縄の先の輪に、ハクの細い手首を乱暴に通してゆく。
従業員たちの間にどよめきが起こる。
柱の外側に一人ずつ立った黄金色の着物の男が、滑車を跨いだ縄を同時に引き下げた。
両手首を縛りつけられ自由を失ったハクの身体が、反動で上へ持ち上げられた。
誰もが一斉に息を呑み、橋の上はにわかにざわめき出した。目を背ける者までいる。
その人ごみを掻き分けて、「おいハク!」と声を張り上げたのはリンだ。
その叫びもざわめきにかき消され、滑車はギリギリと不吉な音を立ててハクの身体は吊り上げられる。
満月に近づいてゆくその表情は能面のようで、何の感情も読み取れなかった。
二つの翡翠は虚空を見つめている。
ただ静かに、あの日の景色を映していた。


二人で手をつないで見つめた草原。
やっと触れられた、君の手。
「またどこかで会える?」
「うん、きっと」
「きっとよ?」
「きっと」
あのときの私は、うまく笑えていただろうか。
「さあ行きな。振り向かないで」
あのときの声は、震えていなかっただろうか。
――ごめんね千尋。私は君に嘘をついた。
やさしい君が振り向かないために。
手がするりと抜けだして、君の背中は緑の海の向こうへと、世界の向こうへと消えた。
ああ、千尋はいい子だね。強くなったんだね。
声が、甦る。
「いや! 行かないで、ここにいて、お願い!」
「ハクありがとう。私がんばるね」
「どうしよう、ハクが死んじゃう!」
「ハク! しっかり! こっちよ!」
「ハク、きっと戻ってくるから、死んじゃだめだよ」
「その川の名はね……小白川」
あの夏の日。
ちいさくて、あたたかいものが、落ちてきた。
ゆらり、流れてゆきそうになるのを、抱きとめる。
水の揺蕩いのなかで、目を開けた君。
幼い、美しい眼差しが、まっすぐに私を見つめた。
泡沫のような出来事だった。
君がくれた全てを、私は決して忘れない。
忘れないから。永遠に――


滑車が、ギィと大きな音を立てて、縄を引く手が止まる。
ハクの身体は、天高くに吊し上げられていた。
ざわめきが一層大きくなり、女郎や女中の涙に濡れた声も交じった。
その、翡翠色の瞳は――
「やりな」
湯婆婆の、低くしわがれた声が響いた。
リンの「だめ!」という叫びが木霊する。
その叫びも、届かないまま。
三本の長刀が、一斉にハクの胸を貫いた。
身体が、空中で仰け反る。
翡翠から溢れた涙が夜空を舞い、月の光にきらめいた。


ポニーテールを結う紫の髪留めが、太陽の光にきらめいた。
千尋は、トンネルの向こうをじっと見つめる。
暗がりに紛れて何も見えない向こう側に、必死で目を凝らす。
つい数十分前に通ったはずの記憶なのに、なぜか遠い昔のように思える。
トンネルの向こうには抜けたはず。でも、その記憶は、霧がかかったようにぼんやりとしている。
――あの向こうは、どこにつながっていたっけ?
不規則に並ぶ赤い提灯。
空に立ち上る黒煙。
むわりと頬を撫でる湯けむり。
きらびやかな料理。
両手に握ったぞうきん。
広がる海に、果てしなく続く線路。
夜を映す電車の窓。
霧の中の記憶は、浮かんでは消え、消えては浮かんでゆく。
花の中を、誰かの背中について歩いた。
星空を、二人で手を握りながら落ちていった。
草原で、約束を交わした。
――誰と?
静かな声を聴いた。
あの声で導かれた。
その響きを聴くと、ひどく愛おしい気持ちが溢れた。
――声の主は?
わからない。思い出せない。
霧が濃くなってゆく。
もがいても、遠ざかるばかりで。

「千尋、早くしなさい」
母親の声に、はたと我に返った。
霧は記憶を包んで、ふっ、とどこかへ消え去った。
トンネルに背中を向ける。
千尋の瞳は、強い意志を持って輝いていた。