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あの夏、あの日、僕たちは

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忍足謙也は地を蹴って、風の如く駆け抜けた。



 8月中旬、午前6時30分。夏の日の出は早く、蝉もとうの昔からジワジワと大合唱を始めていた。常よりも空が近いように思えるのは、きっとギラギラと容赦なく辺りを照りつける太陽の主張の所為だ。空気は湿気を帯びムッと立ち込めていて、遠くの景色はユラユラと揺らいでいる。前日の雨で出来た筈の水たまりは、この熱気ですっかり乾いてしまっていた。
 立ち止まっていても自然と噴き出す汗は身体中を這い伝い、濡れた背中にシャツの生地がぴったりと貼り付く。服の中で高くなった体温が、蒸気のように襟口や袖口からむわりと空気に交じって立ち昇ってくる。まさに茹だるような暑さ。不快指数は100%。しかしそれに構うことなく、忍足謙也は自慢の駿足で、運動公園の中にある800メートルトラックを既に何周も疾走していた。
 東京都内某所にある、アリーナテニスコートに程近いホテルに隣接されているこの公園は、時期が時期だけに朝は常より早くから開放されている。この折、早いのは何も運動場の開園時間ばかりではない。普段の朝はぎりぎりまで眠っていて、朝食も着替えまでも「スピードスター」の名に恥じぬ速さで済ませる謙也が、この時間、既に走りこみを始めているのは珍しいことなのだ。
(今日ばっかりは、おちおち寝てられへんっちゅー話や)
 高まる緊張感、気分の高揚。8月19日、中学男子テニス界は、全国大会の真っ只中である。
 謙也が所属している大阪・四天宝寺中学は、前日の試合が雨のために本日の午前の部に延期となった。この試合では全国ベスト4が決まり、勝ち進めばそのまま午後には決勝進出が決定する試合となる。
 自分のスピードが全国の猛者の中でも劣るだなどと謙也は全く思っていないし、むしろ自信はたっぷりあるのだが、何しろ今日の対戦校には関東最速のプレーヤーがいるというから油断はならない。立ちはだかるは、テニスの名門青学を筆頭に、古豪六角、ダブルスの雄山吹、精鋭部隊ルドルフ、エリート集団氷帝に王者立海と、強豪ひしめく関東地区において、テニス誌をもって「関東大会ダークホース」と言わしめた公立中学である。
「不動峰中、か」
 キリのいいところで徐々にスピードを落としていきコースを外れた謙也は、トラック外周の更に外側にあるベンチにどっかりと座りこんだ。
「心臓、痛いわ……」
 休み休みとはいえど何周も、軽く5キロ以上は全速力で走り続けた心臓はばくばくと脈打ち、口からたっぷり取り込んだ酸素が血液をどくどくと身体中に行き渡らせる。身体は止まらない汗でびしょ濡れだ。全身が「きつい、苦しい」と訴える。けれど謙也は、風と一体になり駆ける時分と同じ程に、自分の身体の躍動を感じることの出来る、走り終えた直後のこの瞬間が好きだった。気分良く、からからに渇いた喉と身体を潤そうと手を伸ばす。
「あ……あかん、飲み物忘れた……」
 しかしその先に鎮座していたものは、走り込みの前に放り投げるようにして置いていったタオルのみ。散々走った後の倦怠感は嫌いでなくとも、身体の渇きはやはり辛い。上昇していたテンションが、僅かばかり下降した。目が覚めてから、いつものようにさっと着替えて出てきてしまった己の性急さを、こんな時ばかりは恨めしく思う。
 仕方なしに彷徨った手でタオルを引っ掴み、首にかける。ひとつ重たく溜息をついて、ぼんやりとベンチにもたれかかって空を見上げた。あまりに日差しが強く思わず目を閉じると、瞼の中、視界は赤やらオレンジやら、明るい色味でちかちかしていた。

 そうして考えるのは、矢張り今日の対戦校のことである。世間が全くのノーマークだったその学校の、主だったプレーヤーは皆2年生だそうだ。昨年秋の新人戦の出場停止から一転、都大会3位、そして全国大会出場。聞けば部員は主力の2年生が大半の7人のみに、監督顧問も不在。一時は廃部の危機にまで陥っていたらしい不動峰中テニス部をここまで這い上がらせたのは、ひとりの少年だという。部長でもある唯一の3年生の彼は、監督までも兼任しているらしい。彼──橘桔平は、1年前にこの中学に転校してきた。

 熊本は強豪・獅子楽中からである。

 獅子楽の橘と言えば、九州二翼の名を冠する少年として、謙也もよく知っていた。1年の頃から頭角を表していた彼を──彼らを、中学テニス界で知らぬ者は、少なくとも関西地区以南では、皆無と言って良いだろう。
 そこまで思考を巡らせた謙也の脳裏に、やがてひとりの少年の姿が浮かぶ。
(ちとせ…)
 橘と揃いで「二翼」と称された千歳千里は、奇しくもこの春、四天宝寺に転校してきた少年だ。彼はとにかく人の度肝を抜くのが得意な人物だった。
 特筆すべきはその長身である。194センチという成人男性の平均身長すら遥かに越える上背は、成長期に入ったばかりの、まだまだ身体の造りが未熟な中学生の一団の中にあって一際目立つ。浅黒い肌は彫りの深い顔立ちによく似合っていたが、ぼさぼさと伸びた、あまり整えるということをしないらしい癖の強い髪のせいで、せっかくの男前はどこか野暮ったかった。外履きは、体育の授業以外では常に鉄下駄だ。片方6キロはあるという。
 そしてテニスの腕は、矢張り、というよりも、想像を遥かに超えて強かった。
 転校初日の放課後にふらりとテニスコートに現れて、顧問の渡邊からの紹介もそこそこに早速行われた試合で、千歳はレギュラー陣をことごとく倒していったのだ。
(俺のスピードも、小春の頭脳も、ユウジの観察眼も、財前のテクニックも、銀のパワーも、全く敵わんかった)
 唯一勝てたのは我らが部長、四天宝寺の聖書・白石のみである。その彼ですら苦戦を強いられ、タイブレークに持ち込まれていた。
 でたらめなテニスをするスーパールーキー・遠山金太郎は当時まだ入部前だったのだが、今現在、部内紅白戦やら時たま遊び半分に彼らが打ち合う姿を見かけては、その体力とテニスセンスに舌を巻く。金太郎のテニスの才能(と言うよりも、運動能力)は飛び抜けているが、あの目茶苦茶なまでのスタミナに、笑みさえ浮かべながら飄々と着いていっている千歳の様は、流石は九州地区に敵無しと呼ばれていた男だと感じざるを得ない。

「…千歳…」

 ふと紡いだ彼の名は、自身の耳にもどこか甘みを帯びた響きで聞こえ、思わず頬が熱を持った。
「…っ」
 千歳千里という少年を、謙也は閉じた瞼の裏に描く。
 くるくるぼさぼさと癖の強い髪、は、近くで見ると意外と柔らかそうで、これまた意外と、いい香りがする。
(触れてみたい。髪ン中に手ぇ突っ込んで、ぐしゃぐしゃに撫ぜて、引き寄せて、思いっきり匂いを吸い込んでみたい)
 意思の強そうな眉、とは逆に、少し下がってどこか幼さを残した目元。
(目悪いから、近すぎるモンとか、遠いとことか見る時に小首傾げて目ぇ細めるところが、なんや、猫みたい)
 強い訛りを発する唇、は、ほんの少し人より厚くてふっくらとして、いつだって緩やかな弧を描いている。
(触ったら、気持ちええんかな)
 猫背だが、すらりと伸びた、無駄な脂肪も余計な筋肉もない整った肢体、に、健康的な褐色の肌。
作品名:あの夏、あの日、僕たちは 作家名:のん