あの夏、あの日、僕たちは
(モデルかっちゅーくらい、スタイルはええよな。実は腰とか、腰とか、腰とか、細いし。脚も細っこいし長いし、尻も小っさいし)
プレイに夢中の千歳やら、部室で着替える千歳やらの、シャツや下着からちらりと覗いた骨の形がくっきり浮かぶ腰や細い大腿。ピタリとしたボクサーパンツのせいで形の良さがまざまざと見て取れる、きゅっと締まった小振りの臀部を思い出す。謙也の喉が、知らずごくりと音を立てた。
「…って、いまそんなん考えとる場合とちゃうやろ俺!」
高い気温の所為でない、別の理由で身体が熱くなりかけて、はっとした謙也はがばりと背もたれから思い切りよく起き上がった。頭の中に浮かぶ千歳を思考の外に追いやるようにぶんぶんと頭を振る。弛緩しきっていた脳みそが、ぐらぐらと揺れる感覚。
「あー……」
自然と眩暈を覚え、再びパタリと倒れ込むように、だらしなくベンチにもたれかかった。
(千歳……。千歳、千歳、千歳。千歳。……千歳)
彼の名が、くらくらとした謙也の頭で踊る。
(ちとせ)
「……すきや」
誰にともなく小さく吐き出した言葉は、強い日差しにじわりと溶けて、消えていった。
忍足謙也は、恋をしている。
閉じた瞼に腕を乗せ、眩し過ぎる日差しを遮った。すっかり暗くなった視界の中、想い描くのは矢っ張り千歳のことだ。
例えば、あれだけの力を持ちながら、ひとたびテニスコートを離れたら途端にぼんやりしだす所だとか。例えば、あれだけデカい図体をしている癖してジブリ作品が大好きで、真剣に森のヌシを探そうとしている所だとか。猫好きが高じて、野良猫をしつこく構い過ぎて引っ掻き傷だらけになっている所だとか。
笑顔は特に、好きだと思う。いつも浮かべている柔らかなそれも、白石や小石川にぎりぎりの出席日数について叱られて浮かべる苦笑いも。試合中の不敵な笑みは勿論のこと、たまたま謙也が発したベタベタのギャグに大笑いして目尻に浮かべた涙だって。それから穏やかな笑みを貼り付けていながら、実は他人との間に一線を引いている、そんな彼の孤独な心すら、放っておけなくて。
(しょーもないくらい、すきや)
気付いたのはいつからか、きっかけは何だったのか。憶えもなければ、とうに忘れてしまったことだ。ただ、確かに言えることは、何とはなしに景色を眺める視界に、いつもあの長身が入り込んでくることと、何をするでもなくぼんやりしている時の脳内は、いつもあのふにゃりとした笑みが占めるという事実。自然と目で追うのも、いつの間にやら思考を支配するのも、謙也にとっては千歳ただ一人に他ならない。
忍足謙也は、千歳千里に恋をしている。
だからこそ気になって仕方ないのは、あと数時間もすれば始まる、試合の行方である。四天宝寺が負けるとは、そして自分が負けるとは、謙也自身これっぽっちも思っていない。それほどに四天宝寺というチームにも、そして自分の脚力にもプレイにも自信があった。気になることはただ一つ。今日の試合のシングルスで、不動峰は確実に橘が来るだろう。過去のオーダー表や試合運びから見ても、彼がシングルスで臨むことは確実だ。
(オサムちゃんは、絶対に橘に千歳をぶつけるんやろな)
ギャンブル狂いでマイペース、彼ほど「聖職者」という言葉が似合わない教師を謙也は知らぬが、あの体たらくと若さで関西強豪四天宝寺を統率する指揮官・渡邉オサムが、最善の采配を振らぬ筈がない。
千歳と、橘。
過去に彼らは九州二翼と呼ばれ、もはや中学テニス界において敵無しのダブルスと賞賛されていた。それが今では各々大阪と東京に別れ、シングルスプレーヤーとして存在している。理由の一つとして、およそ一年前の部内紅白戦の話を聞いたことがある。千歳の右目の視力低下の原因は、その時橘が作ったものだと。
千歳にとって橘は、何者にも変え難い仲間であり、戦友であり、親友であり、因縁の相手なのだ。
(千歳は、今日のこと、どう思てんのやろ)
昨日の様子は、いつも通りだった、ように思う。ぼんやりとしていて、へらへらしていて、にこにこしていて、ふわふわしていて、相変わらず掴みどころがなかった。白石が「不動峰戦、明日に延期やて」と伝えた時も、テニスが出来ないのが不服だと例の如く駄々をこね始めた金太郎を、「雨やけん、しょんなかばい」と慰めていた程だ。
(せやけど、何も思わんワケ、ないやんか)
獅子楽中のことも、橘のことも、千歳がその口で語ったことは一度も無い。けれど謙也は知っている。全国行きが決まり、対戦表につらつらと並ぶ校名の中に不動峰の名に気付いた時、そしてベスト4を決める相手校が不動峰と知った時に小さく揺れた、薄い肩を。いつもふわりと上がっている口角が、きゅ、と引き結ばれた瞬間を。ともすれば見落としてしまいかねない、ほんの僅かに強張った、彼の面差しを。
(何も思わんワケ…ないやんな…)
橘桔平は千歳にとって、謙也たちには図り知れない程の様々な想いや感情やらで繋がった、そんな存在なのだ。それは恐らく、橘にとっての、千歳という存在も。
(そう、互いが誰よりも特別な、)
ベンチで休憩を摂り始めてから、時間は大分経っている。酸素は充分に身体中に行き渡っている。体内を巡る血液の流れも緩やかだ。けれど、
「心臓、むっちゃ痛……」
走り過ぎた直後のように、どくどくと音を立てながら、じくじくと痛む胸。そこに謙也の好きなあの瞬間のような爽快感は、ひとつも存在しなかった。
(恋というものは、甘くて、きらきらとした、美しく楽しいものだとばかり思っていた)
(苦くて、どろりとして、苦しいものでもあるのだと。あの夏、あの日、僕は初めて知ったのだ)
作品名:あの夏、あの日、僕たちは 作家名:のん