あの夏、あの日、僕たちは 3
忍足謙也の目の前で、少年たちは泣き崩れた。あの人に一歩でも近づきたいのだと、幼子のように泣いていた。
無垢で我儘だった小さな子供は、いつしか我慢することも遠慮も覚え、本音と建て前も使い分けられるようになる。「大人」と呼ばれるには程遠いけれど、「子供」と一括りにされる程、無心なわけではない。自分は「子供」ではない、そう自覚している子供たちにとって、感情を素直にさらけ出すこと、それは即ち、恥すべき行為である。謙也たち程の年齢の、特に少年であれば尚のこと、人前で激しく泣く事は、「格好悪い」と忌み嫌われる。
だから謙也は、同じ年頃の少年たちが体裁もなく泣き伏す場面を、初めて目の当たりにした。ぼろぼろと、後から後から溢れる涙と、汗や鼻水でぐちゃぐちゃになった表情が、けれどどういうわけか
(何や、かっこええな)
謙也には、酷く美しいものに見えた。
ネットを挟んだ向い側、肩を震わせ声も無く涙を零す対戦相手の神尾アキラと石田鉄を支えるのは、自分と同じ、夏の日差しを反射し光る、金の髪。
「なあ、銀」
「ああ」
「来年は、もっと強なるやろな。不動峰」
「そうやな」
全国大会、準々決勝。シングルス3の金太郎に続き、忍足謙也・石田銀のダブルス2もまた、対戦相手を棄権に追い込むことによって勝利した。
「何や、最後まで試合続けられる奴おらへんのか不動峰」
「金太郎さんの言う通りやな!」
そう不服そうに金太郎や小春は言うが、試合半ばで神尾と石田が見せた猛獣のようなオーラと、続く迎撃。それらはまだまだ荒削りなものだが、磨かれていけば、彼らはいずれ対戦相手を食らう獣に成長するのだろう。来年は、更なる強敵となって四天宝寺を立ち塞ぐのだろうと、実際に向き合った謙也と銀は、確信にも似た思いを感じていた。
「ごつい奴やな、橘桔平」
無名の不動峰を、少年たちを、ここまで周囲に知らしめ恐れさせるまでに成長させた存在。少年たちが、「彼と在りたい」と切に願う程に信頼を寄せ、慕う存在。
(そして千歳の中で、未だ大きすぎる、存在)
千歳千里と並んで、九州の空を覆い君臨する翼と称されたその少年。飄々として捉えどころのない、風のような、正に空を舞う「翼」と喩えられることも頷ける千歳と比べ、彼は寧ろ、どっしりと地に根を張り構える、獅子のような少年だった。
関東大会では立海の「悪魔」に敗れたという獅子のその実力は、未だ眠りについたままと言われている。千歳に怪我を負わせて以来、彼は己の解放を自ら封じているようだった。
しかし次の試合で、獅子がその眠りを維持させることは恐らく不可能だ。采配を施した、四天宝寺の若き監督・渡邉オサム目論見通りのそのオーダー。
「おーい」
無邪気にじゃれ合いを始めた四天宝寺の名物ダブルスと生意気な後輩を宥めるように白石が声をかける。
「シングルス2、始まるで」
コートの中に、かつて対だった翼が向かい合う。
「元九州最強2人の、目ぇ離せん試合や」
コートに広がる緊張感。辺りは静まり返った。
「……久しぶりたい、桔平」
身体の大きさの割りに高い、穏やかな千歳の声が響く。
「こっちは大阪、お前は東京……まさかこぎゃん形で、再びお前とタイマンはるっとは思っとらんかったばい」
嘘や、と謙也は思った。
(ずっとお前の中に、橘がいたんと違うんか?)
謙也は思い出す。対戦相手を知った時の、噛み締められた唇を。予感していた筈だ。いつか互いがぶつかる日が来ると。
謙也は思い出す。掴んだ指先の冷たさを。小さな震えを。予感し、期待し、そして反面、恐れていた筈だ。この時が来ることを。
「目は……治ったとや?」
「お陰さんでな」
(嘘や。ちぃとも治っとらん癖に。目の代わりに、お前は無我を求めたんやろ)
いつも皆の後ろでにこにこ笑っている千歳の、口数がいやに多い。
今朝、泣きそうな顔で「ありがとうね」と言った千歳。何でもないような顔をしながら、本当はこの試合を誰よりも望んで、何よりも怯えているのだと、謙也は知っている。
ぶわり、と千歳の纏う空気が変わった。観客席にさざ波のように広がる小さなざわめき。
(初っ端から無我を出しよった──)
それだけ橘は、千歳にとって強大な相手なのだ。
「桔平……リミッターば外して本気で来んね!」
口許こそいつもの柔らかな笑みを型どっているが、その目は強く橘を見据え、挑発するような言葉を放つ。
途端、橘が持つ空気も、色を変えた。無我とは違う、もっと猛々しく荒ぶり、近づけば食いちぎられるようにも思える。先ほどの試合で神尾や石田が見せたものよりもずっと胸恐ろしいものを感じる、獣の如きそれ。
「なんや怖いであいつ……めっちゃヤバイわ……」
誰かがごくりと息を飲むのが聞こえた。
そうして始まった、元九州二翼の戦い。
無我を纏う千歳と、猛獣の如きオーラに身を包んだ橘の力は正に互角だった。両者一歩も譲らない。千歳が無我を使い、様々な選手の特技を繰り出せば、橘の猛攻が返る。誰もが息を飲み、この試合に見入る。
ラリーが続き、千歳がスマッシュを打った、その時。
「っ!」
(あいつ──!)
黙ってふたりを、千歳を見守っていようと思っていた筈の謙也の口から、思わず声にならない悲鳴にも似た、吐息が漏れた。鈍い音が辺りに響いたかと思えば、橘の、強い光を放つ右目にぶつかった、千歳の打球。否、あれは橘自ら、当たりに身を投じてきたのだ。
「桔平……」
呆然とした千歳が、その場に縫い付けられたように固まる。
「けじめたい!」
力強く笑う橘に。やがて千歳も、笑い返した。
(……何やろ。千歳の空気が、変わった……?)
「ゲーム不動峰橘 3-1!」
試合は進む。現在、千歳は押され気味だ。
「これが橘の本来の力か……」
不動峰側の観客席からの、畏怖とも、安堵とも取れる声が聞こえ、謙也は鼻白んだ。
(それで千歳に勝てるとでも思っとんのか?俺ら倒して、白石すらも苦戦した、千歳千里に)
四天宝寺に怯む者はいない。千歳に檄が飛ぶ。それに対し、溜息をつきながらも、
「人の気も知らんで、よう言いよっばい」
と笑った千歳を見て、謙也の口許にも自然と笑みが浮かぶ。
(千歳は、まだ「あれ」を出してへん)
千歳からのサーブ。長身の千歳の、更に長い腕がボールを天高く放り、ラケットを振るう。ボールは綺麗にスイートスポットにぶつかった。そして橘に向かう豪速球は、
「き、消えた!?」
(「神隠し」──俺も、こいつにやられた。白石や小春は、さっさと攻略法見つけとったけど)
コートの中、千歳は不敵に笑う。
「今日はたいが調子良かけん、どんどん行くばい!」
神隠しを使い、千歳は次々と点を入れていく。
(橘に、あの打球は見えん)
神隠しは、地面に向かい強烈な縦回転を与えることで打球が急激に上昇し視界から消える、という千歳の得意技だ。テニスに慣れている者は皆、千歳の腕や身体の向き、角度から、自然と打球がラケットに当たるよう動き、ボールを見失う。十八番を出してきた千歳に、どっと湧く四天宝寺席。が、
「桔平!」
楽しげに、千歳が親友の名を呼んだ。
「もう見切っとっとだろ?」
(え、)
無垢で我儘だった小さな子供は、いつしか我慢することも遠慮も覚え、本音と建て前も使い分けられるようになる。「大人」と呼ばれるには程遠いけれど、「子供」と一括りにされる程、無心なわけではない。自分は「子供」ではない、そう自覚している子供たちにとって、感情を素直にさらけ出すこと、それは即ち、恥すべき行為である。謙也たち程の年齢の、特に少年であれば尚のこと、人前で激しく泣く事は、「格好悪い」と忌み嫌われる。
だから謙也は、同じ年頃の少年たちが体裁もなく泣き伏す場面を、初めて目の当たりにした。ぼろぼろと、後から後から溢れる涙と、汗や鼻水でぐちゃぐちゃになった表情が、けれどどういうわけか
(何や、かっこええな)
謙也には、酷く美しいものに見えた。
ネットを挟んだ向い側、肩を震わせ声も無く涙を零す対戦相手の神尾アキラと石田鉄を支えるのは、自分と同じ、夏の日差しを反射し光る、金の髪。
「なあ、銀」
「ああ」
「来年は、もっと強なるやろな。不動峰」
「そうやな」
全国大会、準々決勝。シングルス3の金太郎に続き、忍足謙也・石田銀のダブルス2もまた、対戦相手を棄権に追い込むことによって勝利した。
「何や、最後まで試合続けられる奴おらへんのか不動峰」
「金太郎さんの言う通りやな!」
そう不服そうに金太郎や小春は言うが、試合半ばで神尾と石田が見せた猛獣のようなオーラと、続く迎撃。それらはまだまだ荒削りなものだが、磨かれていけば、彼らはいずれ対戦相手を食らう獣に成長するのだろう。来年は、更なる強敵となって四天宝寺を立ち塞ぐのだろうと、実際に向き合った謙也と銀は、確信にも似た思いを感じていた。
「ごつい奴やな、橘桔平」
無名の不動峰を、少年たちを、ここまで周囲に知らしめ恐れさせるまでに成長させた存在。少年たちが、「彼と在りたい」と切に願う程に信頼を寄せ、慕う存在。
(そして千歳の中で、未だ大きすぎる、存在)
千歳千里と並んで、九州の空を覆い君臨する翼と称されたその少年。飄々として捉えどころのない、風のような、正に空を舞う「翼」と喩えられることも頷ける千歳と比べ、彼は寧ろ、どっしりと地に根を張り構える、獅子のような少年だった。
関東大会では立海の「悪魔」に敗れたという獅子のその実力は、未だ眠りについたままと言われている。千歳に怪我を負わせて以来、彼は己の解放を自ら封じているようだった。
しかし次の試合で、獅子がその眠りを維持させることは恐らく不可能だ。采配を施した、四天宝寺の若き監督・渡邉オサム目論見通りのそのオーダー。
「おーい」
無邪気にじゃれ合いを始めた四天宝寺の名物ダブルスと生意気な後輩を宥めるように白石が声をかける。
「シングルス2、始まるで」
コートの中に、かつて対だった翼が向かい合う。
「元九州最強2人の、目ぇ離せん試合や」
コートに広がる緊張感。辺りは静まり返った。
「……久しぶりたい、桔平」
身体の大きさの割りに高い、穏やかな千歳の声が響く。
「こっちは大阪、お前は東京……まさかこぎゃん形で、再びお前とタイマンはるっとは思っとらんかったばい」
嘘や、と謙也は思った。
(ずっとお前の中に、橘がいたんと違うんか?)
謙也は思い出す。対戦相手を知った時の、噛み締められた唇を。予感していた筈だ。いつか互いがぶつかる日が来ると。
謙也は思い出す。掴んだ指先の冷たさを。小さな震えを。予感し、期待し、そして反面、恐れていた筈だ。この時が来ることを。
「目は……治ったとや?」
「お陰さんでな」
(嘘や。ちぃとも治っとらん癖に。目の代わりに、お前は無我を求めたんやろ)
いつも皆の後ろでにこにこ笑っている千歳の、口数がいやに多い。
今朝、泣きそうな顔で「ありがとうね」と言った千歳。何でもないような顔をしながら、本当はこの試合を誰よりも望んで、何よりも怯えているのだと、謙也は知っている。
ぶわり、と千歳の纏う空気が変わった。観客席にさざ波のように広がる小さなざわめき。
(初っ端から無我を出しよった──)
それだけ橘は、千歳にとって強大な相手なのだ。
「桔平……リミッターば外して本気で来んね!」
口許こそいつもの柔らかな笑みを型どっているが、その目は強く橘を見据え、挑発するような言葉を放つ。
途端、橘が持つ空気も、色を変えた。無我とは違う、もっと猛々しく荒ぶり、近づけば食いちぎられるようにも思える。先ほどの試合で神尾や石田が見せたものよりもずっと胸恐ろしいものを感じる、獣の如きそれ。
「なんや怖いであいつ……めっちゃヤバイわ……」
誰かがごくりと息を飲むのが聞こえた。
そうして始まった、元九州二翼の戦い。
無我を纏う千歳と、猛獣の如きオーラに身を包んだ橘の力は正に互角だった。両者一歩も譲らない。千歳が無我を使い、様々な選手の特技を繰り出せば、橘の猛攻が返る。誰もが息を飲み、この試合に見入る。
ラリーが続き、千歳がスマッシュを打った、その時。
「っ!」
(あいつ──!)
黙ってふたりを、千歳を見守っていようと思っていた筈の謙也の口から、思わず声にならない悲鳴にも似た、吐息が漏れた。鈍い音が辺りに響いたかと思えば、橘の、強い光を放つ右目にぶつかった、千歳の打球。否、あれは橘自ら、当たりに身を投じてきたのだ。
「桔平……」
呆然とした千歳が、その場に縫い付けられたように固まる。
「けじめたい!」
力強く笑う橘に。やがて千歳も、笑い返した。
(……何やろ。千歳の空気が、変わった……?)
「ゲーム不動峰橘 3-1!」
試合は進む。現在、千歳は押され気味だ。
「これが橘の本来の力か……」
不動峰側の観客席からの、畏怖とも、安堵とも取れる声が聞こえ、謙也は鼻白んだ。
(それで千歳に勝てるとでも思っとんのか?俺ら倒して、白石すらも苦戦した、千歳千里に)
四天宝寺に怯む者はいない。千歳に檄が飛ぶ。それに対し、溜息をつきながらも、
「人の気も知らんで、よう言いよっばい」
と笑った千歳を見て、謙也の口許にも自然と笑みが浮かぶ。
(千歳は、まだ「あれ」を出してへん)
千歳からのサーブ。長身の千歳の、更に長い腕がボールを天高く放り、ラケットを振るう。ボールは綺麗にスイートスポットにぶつかった。そして橘に向かう豪速球は、
「き、消えた!?」
(「神隠し」──俺も、こいつにやられた。白石や小春は、さっさと攻略法見つけとったけど)
コートの中、千歳は不敵に笑う。
「今日はたいが調子良かけん、どんどん行くばい!」
神隠しを使い、千歳は次々と点を入れていく。
(橘に、あの打球は見えん)
神隠しは、地面に向かい強烈な縦回転を与えることで打球が急激に上昇し視界から消える、という千歳の得意技だ。テニスに慣れている者は皆、千歳の腕や身体の向き、角度から、自然と打球がラケットに当たるよう動き、ボールを見失う。十八番を出してきた千歳に、どっと湧く四天宝寺席。が、
「桔平!」
楽しげに、千歳が親友の名を呼んだ。
「もう見切っとっとだろ?」
(え、)
作品名:あの夏、あの日、僕たちは 3 作家名:のん