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あの夏、あの日、僕たちは 3

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「攻めてもらったっちゃ、ええとよ」
 橘が、薄く笑う。千歳の放った、消える打球。それは視界から隠れるより前に、跳ね際をスーパーライジングショットで叩かれたことで、容易く打ち返された。
(千歳……!)
 謙也がヒヤリとしたのも一瞬、
「神隠しは、サーブだけじゃなかとよ!」
 千歳は完全に橘の動きを読んでいた。打ち返された神隠し、だがその返球で、千歳は再びボールを「消して」みせた。歓声が上がる四天宝寺。だが一方の橘は、そんな千歳を鼻で笑う。不敵な笑みだ。
(なんでや。なんでこいつは、)
「桔平」
 千歳の、何度目かの親友への呼びかけがコートに響く。
「無我の境地と猛獣のオーラ。己の奥底に潜む能力ば最大限に瞬発的に引き出す面では似とるばい」
(いや、橘だけやない。千歳もや)
「ばってん、無我の境地の奥には、3つの扉があったとたい」
「で、お前はどの扉ば開けて踏み込んだとや?」
「バカ言え!足が竦んで開けるだけで精一杯ばい」
 お互い一瞬たりとも気を抜けない緊張感に溢れているにも関わらず、まるで「友達同士」のような言葉の応酬。千歳は謙也の知らない顔で、けらけらと笑っている。

(こいつら、なんで)

「コノヤロウ…待っとったって訳や」
 橘のこめかみに汗が伝う。それでも尚、彼は楽しそうだった。
「遠慮いらんばい、来んや!!」
 吼える獅子。観客席の空気がびりびり震え、その場に居る者は皆、身を竦め息を飲んだ。

(なんでこんな、こんな嬉しそうに、テニスするんや)

 謙也だけは、ただ千歳と橘の、何人たりとも近寄ることの出来ないオーラの裏にある、何人たりとも踏み入ることの出来ぬふたりの絆を見ていた。

(これが、「九州二翼」)

 この試合、いつからか千歳はずっと笑っている。あんなに怯えていたことが、嘘のようだ。生き生きと、笑って、テニスをしている。かつて対であった翼は、恐れ合いながら、きっと永い間、それぞれ片翼を求めあっていたのだ。
 この邂逅を、待ち望んでいたのだ。

「待っとったばい!無我の奥に踏み込める、こん瞬間ば!」
 千歳が見せつけた、無我の奥。「才気煥発の極み」。

(ああ。俺じゃああのふたりには、近づけへん)

 その力は、相手と自分の動きを一瞬でシミュレートをするという、「頭脳の働き」が活性化されたものだという。

(俺は、千歳の「橘」には、片翼には、なれへんのや)

 千歳には、未来が見えている。
「マッチポイント、四天宝寺!」
 観客席の熱気は、最高潮だ。
「最後は粘るけん、12球で決着がつくたい」
「いちいちうるしゃーばい」

 最後のラリーが始まった。

(俺は千歳の「唯一無二」になんて、なれんのや)

 恐らくこの試合は、千歳が勝つだろう。そう予感しながらも謙也は、橘が、羨ましかった。千歳との間に、強固たる、確かな絆を持つ橘が、羨ましかった。

 羨ましかった。





 千歳千里は、過去の記憶を辿っていた。

 一瞬たりとも油断の出来ない、親友との勝負。それでも千歳の意識は、遠い夏の、ある日にあった。
(俺は、どぎゃんしてテニスば始めたんやっけ)
 始まりは、ふと頭を過ぎった、そんな疑問。こちらを強い眼差しで見据える親友の表情に、くらりと既視感を覚えた。
(そうだ、あれは10才の、夏休み)
 常の如く、散策と称して行く充てもなくぶらついていた時のことだ。気分に任せて曲がったことのない角を、入ったことのない路地を行き、辿り着いたのはテニスコート。そこで目に飛び込んできた、ひとりの少年。
 千歳とそう年の頃の変わらない少年が、小さな身体で大きな中学生に混じり、試合を行っていた。中学生とは圧倒的な体格差、力の差。案の定、それはもうこてんぱんに負けていた少年だったけれど、それでも諦めまいと相手を強く睨んで立ち上がる、その様は、まるで。

(ライオンごた……)

 ぼんやりとその少年を、テニスを眺めていたら、日はあっという間に暮れていて、辺りは夕日で赤く染まっていた。ひぐらしがカナカナと鳴いていたのを、未だはっきりと覚えている。
「なあ、お前、千歳千里、やろ?」
 ふいに名前を呼ばれ、声の方を見やれば、
「ライオンさん……」
「は?」
 あの少年が、怪訝そうな顔をして佇んでいた。
「ライオンさんは、なして俺ん名前ば知っとうと?」
「ライ……隣のクラスやけん、体育で合同授業もしとっと」
「え?」
 太い眉に大きな目。短く刈った髪に、この年頃特有の、赤らみふっくらとした頬っぺた。額の真ん中に鎮座する黒子が特徴的だったが、少年の顔に全く覚えがなく、千歳はきょとりと首を傾げた。
「まあ、そんなことやと思っとったばい」
 お前、授業中どころかいつもぼーっとしとるもんな、と少年は、吐息混じりのどこか大人びた笑い方をする。
「そらぁ、すまんばい」
「別に良かよ」
 思い返せば、こんな田舎町の小学校、生徒数も限られているというのに、合同授業も行う隣のクラスの生徒を見たこともない、などと、当時の千歳は今以上に興味の無いことにはてんで無頓着だった。幼いながら他人にとことん無関心。そんな子供だった。
「なあ」
「何ね」
「よかったら、名前。ちゃんと教えてほしか」
 そんな千歳が初めて惹かれた、ライオンのような少年。彼と仲良くなってみたいと、素直に思った。
「……桔平」
「きっぺい?」
「橘桔平たい」
 今度は年相応ににこりと笑ったライオンは、その日から千歳の、唯一無二の存在となった。

(俺のテニスの記憶には、いつだって、桔平。お前が居った)

 彼ともっと仲良くなりたくて、もっと近付きたくて、千歳はテニスを覚えた。グリップの握り方も、ボールの投げ方も、ラケットへの当て方も、気まぐれな千歳にしては珍しく、飽きること無く橘に教わった。休みの度に、二人でテニスコートに足を運んだ。
 中学生になった。当然のように、二人でテニス部に入った。ちょっとした言い合いが小競り合いになって、殴り合いにまで発展したこともあった。けれど最後はいつだって、いつの間にかテニスをして、そうやって、二人で強くなっていった。
 いつしか二翼と呼ばれるようになった。九州での敵はなくなった。
 互いが、相手を倒せるのは自分だけだと思っていた。互いが、自分を倒せるのは相手だけだと信じていた。



「橘さん!」
 悲痛な、不動峰の部員たちの声が響く。
「な、何だあの構え!?」
 橘がラケットの握りを変え、来る打球を見据える。あの構えを、千歳は良く知っていた。
(アレで来んとや!)
 それは中学2年の、部内紅白戦。千歳が無我を求める理由となった目の傷を作った、橘の大技だ。

「あばれ球!!」

 初めて出会った、話をした、あの夏の日。千歳は確かに、橘に惹かれた。
(「桔平。橘桔平たい。」)
 二翼の二つ名を冠されるようになった、あの夏の日。自分たちは無敵だと、何者にも負けやしないと、そう、信じていた。
(「なー桔平ー」)
(「なんね」)
 ずっとふたりでテニスをしていくのだと、信じていた。
(「俺たち、きっともう全国に敵なしっちゃね」)
(「……そぎゃん調子ば乗っとると、すぐ足元掬われったい」)

「桔平ーーーーー!!」