年の始めのためしとて
鼻腔を擽る柔らかな香りに空っぽの胃が刺激され、眠りの淵からゆったりと引き摺り出された。
昨夜しっかりと閉めた筈の雨戸とカーテンは全開で、室内を陽の光が暖かく照らしている。それは恐らく、前日朝から晩まで飽きもせず抱きしめていた、細い身体の主の仕業だ。今はあの柔らかい温もりは腕の中には無かったが、恐らく先から漂う優しい匂いは、彼女が作り出したものだろう。
起き上がった謙也は、ひとつ大きな伸びをして洗面所へ向かう。新築のマンションの一室は、越して来てから早半年、ようやっと真新しい、余所余所しい匂いが抜け、今ではすっかり謙也の、謙也たちの匂いが染み付いていた。一先ず顔を洗って歯を磨き、彼女と彼女の手料理の待つリビングへ続く戸を開ける。
ドアを開けると、真冬であることが嘘のように、部屋は暖かな温もりと香りで包まれていた。
「お早う」
挨拶と同時、謙也は、台所で何やら汁物を温めている華奢な背中を抱き締めた。
「お早う、謙也くん」
振り返ることもなく作業を続けるその背中。
「もう少しで出来るけん、謙也くん、お餅は何個が良か?」
「おっ!雑煮か!とりあえず二個!……あ」
「ん?もっと増やす?」
「ちゃうちゃう。改めて、あけましておめでとさん、ちゅー話や」
ぴた、と切り餅に伸ばされた手が止まる。
「……あけましておめでとう、謙也くん」
そのままその手がきゅっと掴んだものは、切り餅ではなくて細い身体を閉じ込めるように捉える謙也の腕だ。何だか幼いその仕草が可愛くて仕方がなくて、謙也の腕には益々力が篭ってしまう。痛か、と避難するも彼女の声はどこか楽しげだ。
「何か、まだ変な感じばい」
「何が」
「誕生日もお正月も、こうして謙也くんと居られるこつが、不思議な感じばすっと」
くすぐったそうに、嬉しそうに喋る彼女の、未だ謙也の腕を掴む左手の指をそっと解いて自分のそれと絡ませる。
「そら、「家族」やから当然やで、「忍足千里」さん」
重ねあった互いの左手は、薬指に揃いの指輪が輝いていた。
忍足謙也と千歳千里が中学から十年もの付き合いを経て結婚をしたのは、つい半年前のことである。
誕生日が大晦日に当たる千里は、年末年始は当然九州にある実家に帰ってしまうのが常だった。それが昨日、この十年で初めて日付けが変わったと同時、電話でもメールでも無い方法で祝うことが出来たのだ。
彼女の目を見て、彼女の名を呼び、彼女の頬に触れ、彼女の唇を食み、彼女を抱き締め、彼女を愛す──謙也が思う存分、一日中飽くことなく千里を甘やかし可愛がったのは、言うまでもない。
「……身体、辛ないか?俺も何か手伝わせて」
「大丈夫たい、何とも無かよ。……謙也くん、その、……優しかった、けん、ね」
「そ、そか……?」
「う……うん」
照れ臭そうに笑う千里に、「優しかった」という昨日の自分の、彼女への数々の所業を思い起こし、謙也の頬も自然と赤くなる。
「ほ、ほなごつ……お節は作り置きだし、お雑煮ももう終わりやけん、大丈夫。……ありがとうね」
肩越しに振り返って、ふにゃりとした笑顔が向けられる。謙也は、よく笑う妻の、その笑い方が堪らなく好きだった。
「そ……っか、そ、そんなら、まあ、良えんやけど、」
「うん」
何年の付き合いやねん。中学生か自分は。良え加減慣れろや。……なんて、部活仲間から今ではすっかり腐れ縁となってしまった友人たちが突っ込む姿の幻影が見える。
「あ、あー……その、そーいや、ほんまに良かったんか?今日は熊本帰らんで」
どれだけ時間が経とうとも、相も変わらず彼女が最大の弱点なのだと改めて自覚をしてしまえば、頬どころか身体にまで朱が上った。いい年をして(しかも既婚)いつまでも青臭い自分が情けないやら格好悪いやらで、芽生えてしまった羞恥心を誤魔化すべく話題を変えてしまう。
「うん。親父が、「お前はもう忍足家に嫁いだけん、年末年始はきちんとあちらさんで過ごさないかん」ち言っとったし」
謙也の思惑など当然ながら知る由もない彼女が、これまた歌うように返した言葉に、謙也は如何にも「職人肌の頑固親父」といった雰囲気の、陶芸家の義父を思い出す。千里が言った台詞を話す様子もまざまざと思い浮かべることが出来、思わず苦笑してしまった。
「それに、どうせ明後日行くとやろ?何も問題無かよ」
「そうか?何や、お義父さんがそう言ってくれとんなら」
「そぎゃん心配しちょったと?」
「そらお前……自分が年末年始こっちに居る言うてくれた時はめちゃくちゃ嬉しかったけど、誕生日と年始に可愛ええ娘さん帰らせんで、またお義父さんに殴られたらどないしよー思っとったからなあ」
「ええ?」
冗談とでも思ったのか、くすくすと笑う千里を、いやいや笑い事と違うで、と嗜める。
それはおよそ1年程前、熊本の千歳家に、謙也が結婚の挨拶に言った時のことだった。ガチガチに緊張した謙也が、「娘さんをください」というベタベタの台詞を吃り吃りどうにか口にしたその瞬間。後に義父となるその人に、謙也は思い切り殴り飛ばされたのだ。手加減一切無し、本気のそれは、奥歯が欠けて後に頬が青黒く腫れ上がる程の一撃だった。(因みにその後、「千里を宜しく頼むばい!」と気絶しかけの状態の謙也は、彼に思い切り抱擁されたのだった。)
酒を酌み交わし談笑出来るようになった今では、良い思い出、かもしれない。(正確には、底無しに酒に強い義父に潰されるまで付き合わされた謙也が、後半はグダグダになりつつただ相槌を打っているだけなのだが)
「親父は謙也くんこつ気にいっとるし、とりあえず娘の結婚相手ば挨拶に来たら殴るこつば夢ち言っとったから、そぎゃん怖がらんで平気たい」
「夢、て……ほな手塚もいつかあの鉄拳喰らうわけやな……」
「ばってん手塚なら、謙也くんみたか気絶すっことはなさそうばい」
「喧しいわ!」
「まあ、うちに来る時は歯ぁ食いしばって来んねーっち連絡しとこうかね」
「そうしたれ。……しかしまあ、お義父さんに殴られるんはまだ分かるんやけどな……俺、何で橘にまで殴られたのか未だに理解出来ひん」
千歳家に挨拶をした数日後、橘が出張だとかで大阪に出てきたことがあった。それならばと、お馴染みの仲間たちと連れ立って某居酒屋チェーン店にて婚約の報告をした時、千里の性別を越えた親友である彼によって、謙也はまたしても渾身の一撃を受けたのだった。それもご丁寧に、義父とは逆側の頬である。
(因みにその後、「千歳を宜しく頼むばい!」と矢っ張り思い切り抱擁されて、某後輩から「キモイっすわー」と懐かしくも、全く嬉しくない台詞を言われたことは忘れまい。)
「桔平も熱か男たい」
千里が、愉快そうに空気を震わせ笑い出した。
「熱いっちゅーかなあ」
と、げんなりしながら薄い肩に顎を乗せる。めっちゃ痛かったし、とひとりごちて細い身体を抱き直した。
「あれじゃ大変やな、妹の、あー……杏ちゃん、やっけ?今年結婚すんのやろ?お相手さん、酷い目にあったんと違う?」
「そうみたいやねえ……やっぱり橘家でも、親父さんに殴られて桔平に殴られたらしいけん、お陰で杏が紹介してくれた時、ウチんこつまで怯えとったとよ」
昨夜しっかりと閉めた筈の雨戸とカーテンは全開で、室内を陽の光が暖かく照らしている。それは恐らく、前日朝から晩まで飽きもせず抱きしめていた、細い身体の主の仕業だ。今はあの柔らかい温もりは腕の中には無かったが、恐らく先から漂う優しい匂いは、彼女が作り出したものだろう。
起き上がった謙也は、ひとつ大きな伸びをして洗面所へ向かう。新築のマンションの一室は、越して来てから早半年、ようやっと真新しい、余所余所しい匂いが抜け、今ではすっかり謙也の、謙也たちの匂いが染み付いていた。一先ず顔を洗って歯を磨き、彼女と彼女の手料理の待つリビングへ続く戸を開ける。
ドアを開けると、真冬であることが嘘のように、部屋は暖かな温もりと香りで包まれていた。
「お早う」
挨拶と同時、謙也は、台所で何やら汁物を温めている華奢な背中を抱き締めた。
「お早う、謙也くん」
振り返ることもなく作業を続けるその背中。
「もう少しで出来るけん、謙也くん、お餅は何個が良か?」
「おっ!雑煮か!とりあえず二個!……あ」
「ん?もっと増やす?」
「ちゃうちゃう。改めて、あけましておめでとさん、ちゅー話や」
ぴた、と切り餅に伸ばされた手が止まる。
「……あけましておめでとう、謙也くん」
そのままその手がきゅっと掴んだものは、切り餅ではなくて細い身体を閉じ込めるように捉える謙也の腕だ。何だか幼いその仕草が可愛くて仕方がなくて、謙也の腕には益々力が篭ってしまう。痛か、と避難するも彼女の声はどこか楽しげだ。
「何か、まだ変な感じばい」
「何が」
「誕生日もお正月も、こうして謙也くんと居られるこつが、不思議な感じばすっと」
くすぐったそうに、嬉しそうに喋る彼女の、未だ謙也の腕を掴む左手の指をそっと解いて自分のそれと絡ませる。
「そら、「家族」やから当然やで、「忍足千里」さん」
重ねあった互いの左手は、薬指に揃いの指輪が輝いていた。
忍足謙也と千歳千里が中学から十年もの付き合いを経て結婚をしたのは、つい半年前のことである。
誕生日が大晦日に当たる千里は、年末年始は当然九州にある実家に帰ってしまうのが常だった。それが昨日、この十年で初めて日付けが変わったと同時、電話でもメールでも無い方法で祝うことが出来たのだ。
彼女の目を見て、彼女の名を呼び、彼女の頬に触れ、彼女の唇を食み、彼女を抱き締め、彼女を愛す──謙也が思う存分、一日中飽くことなく千里を甘やかし可愛がったのは、言うまでもない。
「……身体、辛ないか?俺も何か手伝わせて」
「大丈夫たい、何とも無かよ。……謙也くん、その、……優しかった、けん、ね」
「そ、そか……?」
「う……うん」
照れ臭そうに笑う千里に、「優しかった」という昨日の自分の、彼女への数々の所業を思い起こし、謙也の頬も自然と赤くなる。
「ほ、ほなごつ……お節は作り置きだし、お雑煮ももう終わりやけん、大丈夫。……ありがとうね」
肩越しに振り返って、ふにゃりとした笑顔が向けられる。謙也は、よく笑う妻の、その笑い方が堪らなく好きだった。
「そ……っか、そ、そんなら、まあ、良えんやけど、」
「うん」
何年の付き合いやねん。中学生か自分は。良え加減慣れろや。……なんて、部活仲間から今ではすっかり腐れ縁となってしまった友人たちが突っ込む姿の幻影が見える。
「あ、あー……その、そーいや、ほんまに良かったんか?今日は熊本帰らんで」
どれだけ時間が経とうとも、相も変わらず彼女が最大の弱点なのだと改めて自覚をしてしまえば、頬どころか身体にまで朱が上った。いい年をして(しかも既婚)いつまでも青臭い自分が情けないやら格好悪いやらで、芽生えてしまった羞恥心を誤魔化すべく話題を変えてしまう。
「うん。親父が、「お前はもう忍足家に嫁いだけん、年末年始はきちんとあちらさんで過ごさないかん」ち言っとったし」
謙也の思惑など当然ながら知る由もない彼女が、これまた歌うように返した言葉に、謙也は如何にも「職人肌の頑固親父」といった雰囲気の、陶芸家の義父を思い出す。千里が言った台詞を話す様子もまざまざと思い浮かべることが出来、思わず苦笑してしまった。
「それに、どうせ明後日行くとやろ?何も問題無かよ」
「そうか?何や、お義父さんがそう言ってくれとんなら」
「そぎゃん心配しちょったと?」
「そらお前……自分が年末年始こっちに居る言うてくれた時はめちゃくちゃ嬉しかったけど、誕生日と年始に可愛ええ娘さん帰らせんで、またお義父さんに殴られたらどないしよー思っとったからなあ」
「ええ?」
冗談とでも思ったのか、くすくすと笑う千里を、いやいや笑い事と違うで、と嗜める。
それはおよそ1年程前、熊本の千歳家に、謙也が結婚の挨拶に言った時のことだった。ガチガチに緊張した謙也が、「娘さんをください」というベタベタの台詞を吃り吃りどうにか口にしたその瞬間。後に義父となるその人に、謙也は思い切り殴り飛ばされたのだ。手加減一切無し、本気のそれは、奥歯が欠けて後に頬が青黒く腫れ上がる程の一撃だった。(因みにその後、「千里を宜しく頼むばい!」と気絶しかけの状態の謙也は、彼に思い切り抱擁されたのだった。)
酒を酌み交わし談笑出来るようになった今では、良い思い出、かもしれない。(正確には、底無しに酒に強い義父に潰されるまで付き合わされた謙也が、後半はグダグダになりつつただ相槌を打っているだけなのだが)
「親父は謙也くんこつ気にいっとるし、とりあえず娘の結婚相手ば挨拶に来たら殴るこつば夢ち言っとったから、そぎゃん怖がらんで平気たい」
「夢、て……ほな手塚もいつかあの鉄拳喰らうわけやな……」
「ばってん手塚なら、謙也くんみたか気絶すっことはなさそうばい」
「喧しいわ!」
「まあ、うちに来る時は歯ぁ食いしばって来んねーっち連絡しとこうかね」
「そうしたれ。……しかしまあ、お義父さんに殴られるんはまだ分かるんやけどな……俺、何で橘にまで殴られたのか未だに理解出来ひん」
千歳家に挨拶をした数日後、橘が出張だとかで大阪に出てきたことがあった。それならばと、お馴染みの仲間たちと連れ立って某居酒屋チェーン店にて婚約の報告をした時、千里の性別を越えた親友である彼によって、謙也はまたしても渾身の一撃を受けたのだった。それもご丁寧に、義父とは逆側の頬である。
(因みにその後、「千歳を宜しく頼むばい!」と矢っ張り思い切り抱擁されて、某後輩から「キモイっすわー」と懐かしくも、全く嬉しくない台詞を言われたことは忘れまい。)
「桔平も熱か男たい」
千里が、愉快そうに空気を震わせ笑い出した。
「熱いっちゅーかなあ」
と、げんなりしながら薄い肩に顎を乗せる。めっちゃ痛かったし、とひとりごちて細い身体を抱き直した。
「あれじゃ大変やな、妹の、あー……杏ちゃん、やっけ?今年結婚すんのやろ?お相手さん、酷い目にあったんと違う?」
「そうみたいやねえ……やっぱり橘家でも、親父さんに殴られて桔平に殴られたらしいけん、お陰で杏が紹介してくれた時、ウチんこつまで怯えとったとよ」
作品名:年の始めのためしとて 作家名:のん