Fate/fiction in library
Episode.1 槍剣の交え
八ツ崎弦技は牢の中に居た。
光を失った眼差しでふと見上げた。閉ざされた牢の中でも、視線を上に向ければ空が見えた。鉄の柱の隙間から見える細長の景色だ。
薄い灰色の雲が夜の空を隠していた。だが、光はその隔てがあってしても、その光を持ち詫びる少年に、薄ぼんやりを届けた。
そんな微かな光でも、いや、隔たりがあるからこそ、星の輝きはいつもよりも輝いて見えて、だからこそ、輝きを妨げる薄雲は泥のようであった。
……雲はとても低いのに、今のボクにはとても遠くに見える。
弦技は、見上げるために支えにしていた腕から力を抜き、体重のままに寝転んだ。硬いに床は成長しつつある高校生の背中を一度弾ませた。鈍く痛みが走っただろう。しかし、構わずに弦技はぴったりと背中を床につけた。冷たく、厳しいコンクリートの地面は突き放すように横たわる身体を拒む。
夏の一日とはいえ、未だ夜の日は冷える。この冷たさが心細くなるのは何時の日か。その頃には、自分はここから出られるのか。
硬い床に、たまらず寝返りをうった。先の壁を見つめる。そこには彫刻刀で木版を抉ったような傷痕がコンクリートの壁に刻まれていた。ゆっくりと右手を伸ばし、壁の傷を指でなぞる。指先が切れそうなほどの切れ味は、昨日今日ついたものの証だ。
弦技は、噛み締めるようにため息をつく。
これは自分の……いや、自分がつけた傷だ。
大の字になって、気味の悪いシミを浮かべた天井を見た。全身の力を抜く姿勢である大の字は、床の最悪の寝心地を幾分よくしてくれるものだった。
もう……寝よう。
寝て、起きて、寝て、起きて、寝て……。そんな日々を過ごし続ければ、何時の日か自分に取り憑いた怪奇物も払われるだろう。
目を瞑り、寝てしまうように努めた。そんな時。
ようやく、心の嫌悪から解き放たれ、安らかな休息に、身を委ねようとした、その時だった。
その音は炸裂した。
音は、地面を伝わり、全身で地面を感じていた弦技に、来訪者の登場を知らせたのは迅速であった。
「あなた……ランサーのマスターよね?」
しかし、それでも尚、遅かった。
来訪者は、弦技の収める牢の面前に立ち、中腰で人の音を確かめる弦技を見下ろしていた。
月は光を届けていたが、襲来人の表情は影になり、薄桃色の唇が言葉を紡ぐのを照らすだけだ。
襲来した少女はそれじゃあと一言告げ、開戦の合図を取る。見に覚えのない戦争の名だ。その名は、
「聖杯戦争第一戦。開始」
その少女の言葉が耳に入り、理解し、把握する前に、弦技の脳は目の前の襲来人に問わねばならない事柄をいくつもあげた。
お前は誰だ。
ここに一体なにをしに来た。
ボクになにか用か。
だが、問いに意味は無い。どれもがおおよその検討がつくものだ。
牢屋を襲うのに理由なんてないような人間はゴマンと居る。ある者もそれ以上だ。もしそうならば、やろうとすることも明瞭だ。
彼に対して用事があるのも、認めがたいが、この背中に心当たりがあった。
誰であるか。も人であることを知れば、十分過ぎる。
だから、前述の三つの問いはあまり問題ではなかった。どちらかと言えば、こちらがこの場面に陥った時にいってみたい言葉集のようなものだ。
しかし、そんな欲求を満たす場面ではない。反射的にでるお約束の質問よりも、大事なものがあった。それは、彼がココに居る理由、要因。
つまり、一つの忠告。
“ボクに近づくと危険だ”
という一言であった。
しかし、幸いにも――否、不幸にも。その心配は杞憂に終わった。
何故なら、弦技は忠告を口にする前に、牢を破られ、破られる前に襲来人の背に取り憑く影が、少年と世を乖離する鋼鉄の柱を無残にもひねり曲げ、ひしゃいで砕き、粉々に散らす瞬間を目撃したからだ。
◯
三つの影は集っていた。
それぞれは皆男であったが、争うようなことはせず、ひとつ目標を見据え、並び歩いていた。
寂れたビル群、どのような成り行きでこんな有様になるのだろうか。
少し見渡せば、それらは旅館のようだったが、なにか事故でもあったのだろうか。元が立派だから、勿体無い気さえする。
そんなことを思いながら、一人の男はあるビルを前に足を止めた。見上げれば、ビルの壁がぐらぐらと揺れており、外れて落ちてきそうだ。
しかし、そんなボロビルにも恐れず、一人男は歩を進める。足を止めた男に続いて、残り二人も後を追う。
中はそこもホテルのようで、いくつか並んだ観葉植物が頭を垂れて、茶色く焦げていた。
その上にはクモが三匹。黒の身体で背に赤の模様が描かれた不気味なクモ。
その三匹は巣も作らずに、動かず、じっとしている。
そのまま男たちは通り過ぎ、結局三匹のクモが死んでいることには気づかなかった。
◯
八ツ先弦技の災難は続いていた。
初めての投獄、ひとり牢屋にお泊まりも、脱獄という名誉によってさらに延期となった。
弦技は逃げていた。削られた低い山の中腹にある警察署から沿って、山を螺旋状に下り降りる。その道はガードレールで保護された道路だ。
……一体、一体なんなんだ!
彼は歯を食いしばる。突然の理不尽に、しばしの休息を奪われた怒りに、これから迎える力の謎に、強く奥歯を噛み締めた。
涙がうっすらと浮かぶ。もしかしたら、涙を堪えるためだったのかもしれない。
後ろを振り向いても、追手の影は見えなかった。一瞬安堵する。だが、それもつかの間。その代わりに道に沿う草むらを駆ける者の音を聞いた後、それは目の前に現れた。
自分とさほど歳の変わらない少女だ。目鼻立ちのはっきりとした顔立ちだが、リボンで結んで持ち上げられた左右の黒いツーサイドアップは、確かにアジア系特有の綺麗な黒色だ。先程も日本語を流暢に―少し舌足らずながら―喋っていたあたり、日本人と判断してよいだろう。
短い赤のプリーツスカートに細長い足を包む黒のハイソックス、黒の長袖のTシャツには十字架をモチーフにした赤の紋様と右腕には赤のスカーフを腕章のように巻きつけてある。露出控えめの服装だが、その下からでも、鍛えられた肉体の魅力と、女性的な柔らかい魅力が滲んでいる。
着地の反動をゆっくりと身体から抜きながら、まっすぐ弦技を見つめる姿は、胸を張り、肩にかかった髪を右手の甲と指先で払い、艶然と笑みを作った。
「逃げ足はなかなかね。結構わたしも足には自信があるのだけど」
あの少女――テロリストの少女は、普通じゃない。
それは、登場の仕方からでもそうであるが、弦技の牢を破った時、間違いなく、彼女はなにもしていなかった。
彼女は、二人だ。仲間が居る。それも、普通じゃない、人気が失せた亡霊のような協力者が、もしかしたら、近くに居るかもしれない。
弦技は周囲を伺いながら、目の前に立つ少女の気を紛らわすために、話しかけたい。だが、自分自身俗世には疎いと自覚していた。年頃の女の子の話題や趣味などの知識はない。だから、
「君……テロリストじゃないのか……?」
作品名:Fate/fiction in library 作家名:ROM勢