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吐く白

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「最悪、なんで今日に限って降ってくんの」
 突然鉄の扉が開いたかと思えば、先輩の声が飛び込んできて私は目だけそちらへ向ける。髪と肩をひどく濡らした先輩は慌しくスニーカーを脱ごうとしている。余った指にかかっているコンビニの袋が騒がしい。
「天気予報晴れって言ってたのにさー。あ、お前、洗濯物しまってないじゃん」
 先輩は私の傍にかばんとコンビニの袋を乱暴に投げて、無造作に畳に寝転がっている私を早足に跨いで窓を開けた。先輩は駅前のコンビニで、先輩のバイトがない日に菓子類をときどき買ってくる。そういう先輩の習慣もすっかり私に染みついてしまった。
 先輩と私が一緒に暮らし始めてから一年が経とうとしている。私と先輩は同じ大学でちょうど去年の今頃、互いの友人であるタカ丸さんを仲介人にして先輩のアパートに転がり込んだ。最初はそんなつもりは更々なく、一人暮らしをするために家電なども一式揃えてあった。シェアを望むほど経済的に困窮していたわけでもないのに、この1Kに新しい家電やらなにやらを携えて住み着いた。二人の持ち物を合わせると当然不要なものが多く、処分に手間取ったのを覚えている。二人は顔を見知ってはいたものの、ほとんど赤の他人だった。にもかかわらず先輩は嫌な顔ひとつせず、無防備さが心配になるほど簡単に私を迎え入れた。私も私で、ただタカ丸さんに言われたとおりにしただけだった。あるのは俄な好奇心だけで、それさえも好奇心と眠気を不等号にかけば眠気が勝るくらい、曖昧で浅薄なものだ。そのときに言えるひとつの心情があったとすれば、少し痛い目を見たいという不誠実さだった。 有り体に言えば私は退屈していた。
 八畳間の中央にはちゃぶ台があって、片隅に二組のたたまれた布団、手前に簡単な本棚、奥に小さなテレビがある。テレビの陰に充電中のケータイがあって、先輩は途中でズボンのポケットからケータイを取り出して、空いているほう充電器を差した。前に、なぜそのケータイのメーカーを使っているの訊いたら、家族が使っているからと所帯じみた答えをした。
 先輩は取り込んだ洗濯物を所狭しとカーテンレールに引っ掛ける。すぐに部屋は洗濯物でいっぱいになる。洗剤の匂いに混じってそこはかとなく土臭い独特の匂いがする。雨音が不意に耳をついて、雨が降っているのだと気づく。起きようと思ったけれど体が重かった。もう一度力んでみたものの体は面白いくらい動かない。眠気で全身が畳に貼り付けられているような感覚に、私は金縛りにかかっていることに思い当たる。ぼんやりした頭で久しぶりの感覚を味わい、私は目を閉じる。こういうのは大人しく過ぎるのを待っていればいいのを経験で知っていた。
「今日は昨日の残り物で野菜どんぶりな。あと、豆腐の味噌汁」
 私の様子など知らない先輩は、夕飯の支度に取り掛かった。冷蔵庫を開ける音が聞こえた。冷蔵庫にはまだ昨日買ったココアプリンが残っているはずだ。
 先輩はあまり活気のない蛍光灯をつける。鍋がコンロの上に置かれる音や火をつける音、長らくフィルターを換えていない換気扇の回転音。蛇口が捻られて、流れる水が遮られて不規則な音をシンクに落とす。
 先輩の手を洗う時間は長い。ついでに言うと歯磨きの時間も長い。
 それから洗濯物にアイロンをかける。アイロンをかけている先輩を見るのは結構好きだけれど、パジャマにまでアイロンをかけるのは正直に言うと、引いた。一度だけ私のものもかけてもらったが、それは私の日常には馴染まなかった。
 あのパジャマを着て眠った日の感覚は忘れようにも忘れられない。洗剤の匂いと、糊の利いた布の抵抗感。何よりこの先輩がその質感を作ったのだと思うと無性に歯がゆくて、落ち着かなくて仕方なかった。
 二人で暮らしているということをそんなことで実感していった。今ではそれも懐かしいくらいにこの暮らしに馴染んでいる。
 最近の先輩は頼めば一緒にお風呂にも入ってくれる。でも基本、お風呂は一緒に入ってくれない(タカ丸さんいわく、入ってくれるのが奇跡)。お風呂には入ってくれないけれど、一緒の布団で寝てくれる。私が夜中に下らない夢にうなされて五月蠅くしても先輩は優しかった。私は泣きながら目覚めることが度々あった。目覚めが悪いわけでもなく夢の中に泣いた理由を全部置いてきてしまった私は無感情にただ涙を流して、辛うじてあるのは暢気な羞恥心だった。そういうときも先輩は無闇に優しく、私はされるがままに甘えた。
 その名前を、亀裂を、私は知っていた。
 料理が一区切りしたのか先輩がテレビをつけにやってきた。テレビではニュースをやっている。どこか私の知らない土地で死体遺棄の犯人が逮捕されたとキャスターが言う。
 少し体が痛くなってきていたところで先輩は私の傍にやってきた。私は薄目を開けるのが精一杯だった。
 先輩がかがむのが見えてかすめるように私の頭をはたいて先輩は料理に戻った。
 どういうつもりでそうしたのか私には伺えなかった。ただ、その手は酷く懐かしく感じた。
 私の目の前にはさっき投げ置かれたコンビニの袋があって、中が覗き見えている。リプトンのレモンティー、レシート、私の好きないちごのアイス。
(先輩、アイス溶けちゃうよ。)
 私は心の中で言う。相変わらず体は動かず、畳についた頬が擦り傷を作ったときの痛みを持つ。
「もう春だよなぁ」
 今日外れたばかりの天気予報が流れていたのを聞いた先輩が独り言のように言う。天気予報で明日は晴れるという声が聞こえる。
 台所からは小気味いい包丁の音がしていた。先輩の実家から持ってきたいいまな板を使っているからだ。
「ちょっと先の、駅側の家の梅がさ、もうだいぶ散ってるんだ。雨できっともっと散るよ……。俺、梅好きだな。二月ぐらいから枝がほの明るくなってすごい寒くても、ああこれから春が来てくれるんだなって思うよ」
 春の初めどの花よりも早く、静かに、春らしく咲き零れる梅を想像する。冷たい空気に身を縮こまらせつつも丸い小さな花を開かせる。
 私は震える思いだった。
 何ともなしに背中を向けて二人分の夕飯を作る先輩に縋りつきたかった。その優しさの行方を温度で確かめたかった。
 喜びと悲しみと嫌悪が入り混じった感情は形を得ることなく、強烈な睡魔に似た力で気化した。
 あとひとつ名前の知らない、知ることのできないものは、いくら留めようとしても私の手から溢れて落ちていく。
(先輩、私は二月が嫌いです。)私は口の中、震えない喉で言う。(何かをひたすら耐えるような、その薄暗さが永遠に続いていくような気持ちがするんです。だから、何もかも終わったあとの沈丁花の匂いが好きです。あの甘ったるい匂いが春なんです。だから私の春はいきなりやってくるんです。)
「明日梅でも見に行くか。隣町の公園の、」
 そういう先輩は至極まともで私もそうしたいと願った。
 きっと先輩のいう緩やかな春はあっと言う間に終わってしまって鬱屈した梅雨がくる。夏になったらクーラーもないこの部屋で、先輩と畳の上でただ動物みたいに寝たいとしみじみ思った。
 お風呂の戸が開く音がして間もなく水の流れる音が聞こえてくる。
 私は目を瞑って、もう一度眠ろうとした。
作品名:吐く白 作家名:mamu