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スズメの足音(前)

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 三月の始めには俺が風邪を引いた。
 人手不足でお互いシフトに入れる限界まで組まれていて、欠勤の連絡を入れるのも申し訳なさでいっぱいだった。その上、細山にまでうつすわけにはいかない。そう理由をつけて細山にはしばらく他で寝泊まりしてもらうよう頼んだ。元々一人暮らし用の狭いアパートだ。布団だって一組しかない。
 でも、心身とも弱っている今は距離を置きたい、というのが一番の理由だった。
 寝ていれば治ると思ってそうしたものの、冷蔵庫を開けても缶ビールしかない現実には打ちのめされた。日頃から自炊をさぼっているとこうなる。何か食材があったところで調理する気力も残っていなかったけれど。
 自力で買い出しに行くにも熱が高すぎた。ちょうど週末で最寄りの病院はやっていないし、このまま正味二日も一人でろくに口にできるものもなく過ごすのは恐ろしく、携帯を開いて、かなり時間をかけてメールを一通送った。

「おじゃましま……うわっ!散らかしてるなあ。大丈夫かー?」
 最寄り駅に到着したと連絡が来た時点で鍵を開けておいた玄関から勝手に入ってきた旭が大きな体を揺らす。
「前はもうちょっときれいにしてただろ。風邪で片付けてないってレベルじゃないよなあ」
 足元を確認しながらベッドの横まで来て両手に持ったパンパンのビニール袋を下ろした。中身はスポーツドリンクとゼリー類。市販の風邪薬と冷却シートもある。
「起き上がれるか?コップ……あー、待って。今洗うから、そしたら起き上がって薬飲め」
 コップとスプーンばかりのシンクで取り急ぎグラスを一つだけ洗って持ってきてくれた。何も食べられそうになかったから、スポーツドリンクを多めに飲んですぐ横になった。
「ごめん、旭」
「いいっていいって。どうせ暇だったしさ。暇ついでにここらへん勝手に片付けるけどいいよな?」
 床に散らばっているのはほとんど細山のものだったからあまりよくなかったけれど、止めるのも面倒で黙って見ていた。雑誌を一つの山にして、ゴミを集めて、脱ぎ捨てたものと取り込んだ洗濯物と区別のつかない衣類を回収し。その途中で手が止まる。
「……スガ、今誰かと暮らしてる?」
 きた。家にあげたらすぐバレると思った。何も片付いていなかったおかげでカップが二人分あることには気づかなかったようだし、風呂場まで行かなかったから歯ブラシの数も見ていなかったけれど、明らかに俺の趣味じゃない雑誌やサイズすら違う服でわかったらしい。
「うん」
 助けを呼ぼうとしたとき、候補は三人きりだった。細山と、旭と、大地。細山は呼び戻したくなかった。旭や大地を家にあげれば細山のことがバレるだろうと考えたら、旭のアドレスに手が伸びた。
 服をかき集めてベッド脇まできた旭がしゃがんだままビタッと固まるのを枕に埋まりながら見ていた。以前ぐちゃぐちゃ考えていたときに想像したほど不安や心配でいっぱいにはなっていなくて、うろたえる旭を冷静に観察できた。
「あ、あの……あのさ、スガ」
「付き合ってる」
「え?」
「一緒に暮らしてるヒトと。バイト先の先輩。実家を追い出されてからアパート見つけるまでって約束でずっと泊めてる」
「………………」
 打ち明けるのは案外簡単だった。旭はベッドの下のセックスのための道具と身じろぎもしない俺を見比べて、眉尻を下げた。
「……そうか」
 ほら、旭は男と抱き合ってると知っても否定したりしない。
「その人は今日帰ってこないの?」
「仕事が忙しいから、同じ部屋で寝泊まりしてうつすわけにいかないし、しばらく出てってもらってる」
「買い物も頼めない?」
「呼びつけてごめん」
「ああ、そういう意味じゃなくて……」
 高校の時から変わらず長い髪を一つに括った後頭部に手を当て唸る。
「なあ、どうして俺を呼んだの?」
 少し質問が変わった。熱でしゃっきりしない頭でも、その違いがよくわかって、すぐには答えられずにいたら、理解できなかったと思われたのか、旭が言葉を足す。
「何か事情があってカノ、カレ……恋人に頼めないのはわかったよ。でも、距離なら大地の方が近いよな。大地の方がこういうときも役に立つだろうし、いつも頼りにしてるのは俺より大地だろう?」
「…………」
「大地だってさ、その、男の人と付き合ってるからって嫌な顔するタイプじゃないよ……多分。」
「……うん、俺もそう思う」
「でも、大地には知られたくないんだろ?」
「………………うん」
 遠目には大柄で恐く見える、少し彫りが深めで、大型犬のような目でじっと見つめられた。見た目に反して気持ちが弱くて、一度言った言葉さえ自信がなくて濁してしまったりする。そんな旭がゆっくり質問を重ねて俺を暴きにくる。ついに居た堪れなくなって枕に顔を埋めた。
「はぁ……」
「ごめん……」
「え、いや、別に怒ってるわけじゃないけど」
 やや間があって、諭すような穏やかで真面目な声音で続けた。
「別にスガが好きなら男でも女でもいいと思うし、一緒に住むのもいいと思うよ。だけど、大地に言えないような相手はやめとけよ」
 旭はいつだってそうだ。自分がダメと思うからダメだ、とは言わないで、「大地が怒るよ」と言ってダメを言う。そんなどうしようもないところが、二十歳になった今も変わらない。せめて、今だけでも「俺はダメだと思う」って言ってくれたらいいのに。
 また他人に、考えないようにしていたことを整理された。次はどうして旭には言えて大地に言えないのかを考えなくちゃいけなくなる。
 消去法で旭を呼んだのだって正解じゃなかったのかもしれない、と恩知らずに腹を立てて、枕の中からやっと言い返した。
「…………大地大地って、大地は保護者かよ」
 旭が弱り声で「それは嫌だなあ」と言うので笑ってしまった。
作品名:スズメの足音(前) 作家名:3丁目