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スズメの足音(前)

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 酔いのせいにして俯くと余計に頭がくらくらした。
 “菅原くん”なんていう改まった呼び方がくすぐったくて、少し沈黙があった後に「下の名前で読んでいい?」と訊かれたときはすぐに頷いた。
「じゃあ、孝支くん」
 聞き慣れた声で馴れない呼び方をされて顔が真っ赤になった。

 そのあとあまり日を置かずに二回牛丼屋へ行って、また同じ店に飲みに誘われた。
「またスガワラくん連れ回してるんですか?」
 店の女の子にからかわれて空のビールジョッキを押し付けながら「まだここは二回目でしょ」と言えば「他にも連れ回してるんじゃないですか!」と水のグラスが押し付けられる。
「そろそろ終電ですよ。お勘定にします?」
「あー……」
 携帯で時間を確認してチラリと横目で見上げてくる。
「孝支くんち近いんだよね?」
 バイト先と同じエリアの店だ。酔っ払っていても十五分も歩かない。
「泊まります?ちょっとうるさい部屋なんですけど」
「うん。じゃ、ミナコさん生おかわり。それでお勘定で」
 話がまとまってからは早かった。家の細かい場所や寝る場所がどうとか話しながらもいいペースで飲み干して店を出た。天気のいい夜だったけれど星は見えなくて、暗い空を見上げてこっそり部活帰りの宮城の空を思い出したりした。天気予報で宮城も快晴と言っていたから、後輩たちは満点の星空を見たかもしれない。都会ぐらしも楽しんでいるけれど、こんなときには帰省が待ち遠しくなる。
 ずいぶん飲んだと思っていた細山の足取りはしっかりしていて、十分ちょっとで狭いワンルームのアパートに着いた。
 地元の友達と親しい大学の友達を何度か上げたっきりの部屋の玄関に初めての人の靴が並ぶと不思議な気分だ。
「へぇ、案外片付いてるんだな」
「たまたまこの間まとめて雑誌をゴミに出したばっかりなんですよ」
「服とかは?」
「脱いだら直接洗濯機です」
 正方形に近い長方形から突き出す形で設けられたユニットバスの入り口前にちょっとしたスペースがあって洗濯機置き場兼廊下になっていた。突っ張り棒をしてカーテンでもすれば脱衣所の出来上がりというわけだが男の一人暮らしにそんなものはない。
「室内に洗濯機あるのか。友達んちは廊下とか学生マンション内共同のヤツばっかりだった」
 実家住まいの細山が物珍しそうに洗濯機のフタを開ける。ちょうど3日分ほど溜め込んで洗おうと思っていたところだ。
「今着てる奴洗います?シャツだけだったらすぐ干したら昼までには乾くと思いますけど」
「夜中にやったら苦情来るだろ」
「うち、下の部屋は今空室だし隣は元々夜回す人なんですよ。俺もうるさくて寝れなくなるタイプじゃないから苦情入れたことなくて」
 会話を聞きつけたかのように壁の向こうからガコンガコンという音が漏れだす。
「フハッ、うるさい部屋って近所で工事でもしてるのかと思った」
「去年の秋頃は工事もやってましたよ」
「見かけによらず図太いな」
「部活の合宿でも一度寝たら誰が大イビキでも起きなかったですね」
 結局シャワーも貸すことになり、細山は着替えのパンツを買いにコンビニまで出かけた。付き添いの申し出は断られたので寝間着代わりに貸せそうなシャツとバスタオルの予備を探した。高校の友人が泊まったときのために一枚だけあるはずだ。
 衣装ケースの奥から発見した頃に戻ってきた細山は下着と歯ブラシセットの他にお茶のボトルと菓子の袋を提げていた。
 順番にシャワーを使ってから隣人とほぼ入れ違いに洗濯機を回し始める。終わるまでは眠れないので細山の買ってきた食料を小さなテーブルに広げた。つらつら話をしていても細山はほとんど聞き役で、多分あんまり興味がないだろうバレー部の話にも質問を挟みながら相槌を打ってくれた。
 洗濯段階から脱水に変わる頃には眠気で言葉が減って沈黙も増えたけれど居心地の悪さなんか微塵もなかった。だから沈没寸前で踏みとどまってえびせんを口に押し込んだタイミングで改まって名前を呼ばれた時にも、細山の様子の変化に頭がついていかなかったし、その後の言葉もノーガード状態で受けてしまった。
「あのさ、今言ったら困らせるかもしれないけど……、俺、孝支くんのこと好きみたいなんだ」
 即座に適切な反応は返せなかったけれど意味を取り違えることはなかった。なんとなくわかってたからだ。
 最初に飲みに行ってから毎日のようにとりとめのないメールをして、シフトが被れば庇ってもらったり励まされることが何度もあって、そういう夜にもらうメールは開封するのさえくすぐったい。
 細山のメールは絵文字が少なくて落ち着いている。会って話をする時の喋りをそのまま文章にしたような文面で、書かれている優しい言葉が簡単に頭の中で音に変換される。細山はマメで常に優しかった。
 バイト先の後輩相手にする親切にしては度が過ぎている。と、思いながらも黙って何でもかんでも受け取り続けてきたのだ。
「…………はい」
 慎重に顎を引く。
「もちろん友達とかバイト仲間とかそういう意味じゃなくてだよ?」
「わかります」
「………………さすがにヒク?」
 自分より大きな男が不安そうにしている。こちらだって何て答えたらいいか正解がわからなくて、不安で、頬の内側にえびせんが張り付いているが噛んで飲み込むことさえ憚られて唾液で湿っていくばかりだ。
 ただ、バイト先の先輩から受けるには度が過ぎるメールを浮かれた気分で読んでいたのは間違いない。
「ヒかないです」
 キッパリ答えると細山が手を伸ばしてきた。頬を触って、静かに唇が触れる。後頭部を支えるようにされて髪を撫でられた。やり方で女の子みたいに扱われているのがわかる。
 目を閉じて身動きしないでいると数秒で離れて至近距離で再び囁かれた。
「好きだよ」
 頭の奥が焼けるように熱くなって背骨を伝った熱が腹の底で疼く。返事は浮かばなかった。でも、慎重に、試すように体に触れる手のされるがままになっていた。
「ずっと可愛いと思ってた」
 一言ごとに心拍数が上がっていってどうにかなりそうだ。受け身で黙っていると厚い胸に引き寄せられた。つむじに頬ずりしたままで言われた。
「なあ、好きって言って」
「…………………………、……好き」
 そこから俺は細山の恋人だった。
 シフトの違う日でも従業員控え室で待っていたり近くのコンビニで時間を潰して一緒に帰ったし、細山は何度も泊まっていって、そのうち体を繋いだ。
 女の子みたいなちょうどいい体じゃないから手間も時間もかかったけれど、気持ちの上での抵抗はあまりなかった。
 ただ、暗黙の了解でお互いの関係は誰にも秘密だった。





作品名:スズメの足音(前) 作家名:3丁目