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ブラック・ウルフ

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男は言った。
「何があっても、海上で、箱からこれを出さないようにしてくれ」
 もう一人の男が尋ねる。
「もし、出してしまったら?」
 男は声を殺して言った。
「……恐ろしいことが起こるかもしれない」

 デマンダ山脈からの山おろしが小さな湾内を吹き抜けた。風浪が白い泡を砕きながら島陰に錨を下ろしている船を揺らし、船尾にどっかりと腰を下ろした男は、緑風をふかぶかと吸い込んで、満足げなため息をつく。
「風の匂いも温海とは違うな」
 真っ黒に日焼けした精悍な顔つきの男は、きらきらと光る海に一つしかない黒い瞳をまぶしそうに細めた。巻き上げられた真新しい帆と、帆柱から垂れ下がっている索具と呼ばれる何本もの綱が、ばたばたと風に揺れる。
「しかし、波とは不思議なものだな。なんでこう……絶えず打ち寄せるのか」
 深い意味もなく、独り事でつぶやいただけだったが、帳面を持ってそばに立っている男は聞きとがめて嫌な顔をした。
「表面張力や重力による復元力と風などの外力が海面に働いて変形を生じ、それらは伝播するからです。それより、ちゃんと聞いてくださってるんでしょうね?」
 船乗りというより、どちらかというと学者肌の男である。ひょろりと痩せた体に、神経質そうな顔つきを持つ男は、一段高くなった船尾楼でうるさそうに耳垢を取っている片目の男を上目使いに睨んだ。
「金のことはロッシ、おまえに任せたはずだ」
「船の修理と、当座の水や食料にいくらかかったかは、船長として知っていて当然のことです。温海と違って、この辺りは物価が高いんですから」
 ロッシと呼ばれた男は、片手に持った帳面を苛立たしげに筆記具で叩いた。
「だいたい、ここまでこの船の財政が苦しくなったのは、あなたのせいでもあるんですよ。ジャッカルだけでなく、温海の海賊全てを敵に回すような真似をして……」
「うるせえ、船長はおれだ。利口面しておれのやり方に反対するんなら船から下りろ」
 隻眼の男は一つ二つ年上の口うるさい会計係を怒鳴りつけた。
「けっ。あんな奴らと一緒にいれるかってんだ。悪どく儲けてやがる商船を襲っている間はまだ良かった。が、リブロフの役人に懐柔されやがって、温海での仕事は今や奴隷売買が主流だ。この海賊ブラック様が、武力も持たない原住民たちの子供を攫って売りさばくなんて薄汚ねえ仕事ができると思ってんのか」
「だからといって、あの場でジャッカルの喉を掻っ切ることは、やり過ぎだと言うんです」
「あんな腐った野郎は鮫の餌にでもなればいいんだよ。って、だからいちいちうるせえんだよ。おまえは黙って金の勘定をするか、それが嫌ならさっさと船を下りろってんだ」
 その倣岸な態度にロッシは大げさに肩をすくめた。
「下りませんよ。そうやって、わざと私を怒らせて船から下ろそうとしても無駄です」
 ふてくされたようにブラックはそっぽを向いた。その時、金色の髪の青年が船倉から上がってきた。名前をクーバといい、一番年若である彼は、見張りや帆を操る檣楼員及び使い走りのようなことをしている。
「船長、おやっさんが呼んでますよ」
 まだあどけなさの残る顔立ちだが、頬の醜い刀傷が勲章のように彼の戦歴を物語っている。
「用があるなら、上がってこいと言え」
「そう言って上がってくるようなら、始めからそう言ってますよ」
 ブラックはいまいましそうに舌打ちして立ち上がる。
「ったく、どいつもこいつも……。船長の命令は絶対であり、口答えは許さんと紙に書いて貼っておくか」
「いいかもしれませんね。でもその前に、全員に文字を教えなければ」
 にこりともせずにロッシが言うと、ブラックはむっ、としたように一瞥し、ひらりと楼より飛び降りて、不機嫌そうに足音を高く鳴らしながら甲板下の船倉へと下りていった。

作品名:ブラック・ウルフ 作家名:しなち