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緑間真太郎の幸福な一日

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眼鏡の位置を片手の指で整えながら、緑間は大きな液晶テレビを見つめて口の端を持ち上げた。
眠る前から必ず合わせているテレビチャンネルは、紛うことなく重要な朝の儀式をもたらしてくれる。
午前七時五十五分丁度に始まる、たった五分間の占いコーナー。
しかし、この『たった五分』が緑間の一日を運命付ける。

「成る程、道理で良い朝だと思った」

今日の一位は、というアナウンサーの声と共に画面に大きく映し出されたのは、緑間の星座だった。
そういえば今日は特に目覚めが良かったし、起きてすぐ眼鏡を見つけることが出来たし、朝食代わりのコーヒーもいつもより薫り高い――気がする。
だが、ここで油断してはならない。
幸福な一日をより幸福に、最高の時間をより最高に。
己の行動の指針を得ようと、緑間は次の言葉に全神経を集中させた。

『今日はとってもハッピーな一日になる予感! ラッキーアイテムはピンクの小物。一番大切な物と一緒に持てば最高の時間がゲット出来そう!」

ピンクの小物。
その言葉と共に自室にある種々雑多なお守り―一般的な表現では『ガラクタ』だが―を思い浮かべる。
ピンク色の物は何があっただろうか。小物とはどの程度の大きさを指すのだろうか。
真剣な顔で親指と人差し指を近づけたり離したりしていると、テーブルの上に置いていた携帯電話が急に震えだした。
小さな画面には見慣れた名前と『メール受信』の文字。
緑間は『果報は寝て待て』などという諺は大嫌いだったが、しかしこのタイミングで訪れたメールには期待せざるを得ない。
三十分もしない内に会えるというのに、わざわざメールで寄越して来るメッセージとは一体? 
そういえば明日は学校は勿論のこと、部活も休みだった。

――と、いうことは。

思わず期待を脳内で具体化させてしまった緑間は、しかし次の瞬間、勢い良く首を横に振って己の不埒な妄想を打ち消した。
朝から何を考えているのだよ、と一人呟きつつも、捨てきれない年相応の煩悩のせいで口元が緩む。
焦って滑りそうになる指をどうにか制御しつつメールを開けば、そこには思いもよらない言葉が書かれていた。

『真ちゃんごめん、風邪引いたから今日休むわ><』

なんだ、この不等号は。



『緑間真太郎の幸福な一日』



同じ日の放課後、今日最も幸福であるはずの男――緑間は項垂れながら帰路についていた。
緑間は、今まで一度たりとも朝の占い結果を疑ったことなどなかったが、今回ばかりはほんの少し疑念の影がよぎる。
朝一番に高尾からメールが入った、そこまでは良かった。
それでこそ最良の一日のスタートに相応しい。

しかし、それ以後は最悪だ。

少し思い返すだけでも不幸に見舞われている。
返信に悩んでいる間にうっかり肘が当たってコーヒーをぶちまける。
廊下を歩きながらメールを打っていてドアに頭をぶつける。
やっとメールを返すも時計の針は無情に進んでおり、急いで玄関を出れば靴紐が絡まって転げかける。
視界に入る数字は全て四か九だし、霊柩車が三台続けて通ったかと思えば黒猫の集団が眼前を横切る。
珍しく授業中に呆けてしまい、教師に指摘されて周囲に笑われる。
昼休憩が終わってから昼食を取っていないことを思い出す。
部活中も中々集中出来ず、チームメイトから心配されてしまう始末。
――ここまで重なると、流石の緑間も己の『今日はとってもハッピーな一日になる予感!』というアナウンサーのハイテンションが信じきれない。
朝の慌ただしさの中、何とかピンクの兎のマスコットが付いたキーホルダーを持ち出したというのに、その効力は一向に発揮されていないように思える。
もしかして十二星座でなく十三星座だったのだろうか。
だとすれば己の星座自体が変わってくるから、占いの結果と現実との間に齟齬が生じてもおかしくはない。
あくまでも占いそのものは至上としたまま、緑間は眉間に皺を寄せながら『齟齬』の原因を考え続ける。
『齟齬』は何もそういった分かり易い不運ばかりではなかった。
緑間は今日一日、教室に居ても、部室に居ても、どの場所どの場面でも奇妙な居心地の悪さを感じていた。
当然誰かに何かを言われたり、されたりしたわけではない。仮にもしそうだとしても、そんなことを緑間真太郎が気に留めるはずもない。
ただ、振り返った先に見慣れた姿がなかったり、欲しい時に絶妙なタイミングで来るはずのパスが来なかったり――そういう小さな違和感が積み重なって緑間の気持ちを重くさせる。
今もまた、いつもの帰り道にいつもの笑い声がないだけで、こんなにも憂鬱だ。

「つまりは高尾のせいなのだよ」

考えるよりも先に唇から言葉が零れた。
緑間は立ち止まってその意味を考える。
高尾のせい、高尾が居ないせい、高尾が風邪などひいているせい、高尾が――高尾が全て悪い。

「そう、高尾のせいなのだよ!」

今度は意識的に声を上げる。
その声に驚いた誰かが後方で鞄を落としていたが、高尾和成というたった一人の人物に思考を塗り潰されている緑間はそれにすら気付かない。
そうだ、高尾だ。
高尾のせいで今日の自分はこんなにもハッピーの真反対であるに違いない。
今朝の占いを再度思い出す。ラッキーアイテムはピンクの小物、そして――。
緑間は一人目を輝かせると、少し離れたところにあるコンビニ目指して走り出した。
今朝方『放課後見舞いに行く』と返信し、即座に『来ちゃ駄目っしょw』と釘をさされたことなど完全に忘れていた。


***


「いや、来ちゃ駄目っしょ。何してんの真ちゃん」

両手にコンビニの袋を五つも提げた緑間に、最初に投げかけられた言葉がこれだった。
普段のような明るい声ではない、半ば本気で呆れている――或いは怒っているかのような声音は心苦しいほど掠れていて、緑間は痛ましげに目を細めた。
部屋着の上に中学のものらしいジャージを羽織り、大きな白いマスクで顔の半分を覆った高尾は常よりも幼く見える。

「何って……お前が悪いのだよ、高尾。高尾が居ないせいで今日は散々だった」
「え? 今日真ちゃん占い一位だったじゃん」

そう首を傾げながら、高尾は緑間の通学鞄へと視線を下ろした。
鞄に付けているピンク色のキーホルダーをめざとく見つけたのだろう。

「それがだな――いや、立ち話もなんだからひとまず部屋に上げるのだよ」
「駄目だって、風邪うつったらどうすんの?」

顔を背けて小さくケホと咳を零してから、少し潤んだ目で高尾が見上げて来る。
平静を装いつつも緑間はごくりと唾を飲み込んだ。
今朝の不埒な期待が一瞬頭をよぎる。

「そんなにヤワじゃないのだよ」
「まるで俺がヤワみたいに言うなよ、超凹むから! 俺今マジカッコ悪すぎだから!」
「事実そうだろうが! 普段の体調管理がなっていないから、風邪などひくのだよ!」

高尾が掠れた声を張り上げるから緑間も思わず声を大きくしてしまった。
他人の家の玄関先、しかも病人相手だということを考えれば些か無遠慮なほどだったが、高尾の方が口論に乗らなかったために一瞬にして辺りは静寂を取り戻す。
高尾は下唇をほんの少しだけ噛んでから、緑間の視線から逃げるように俯く。
作品名:緑間真太郎の幸福な一日 作家名:モブ