花の名前1
そんな大神は誰の目から見ても、真面目で素直な、なおかつ上に馬鹿が付くほどのお人好しだった…
その中を覗くとそこには椅子が一つ備え付けてあった。
ーこれに座ればいいのかな?
多分そうなのだろうーというかそれ以外に椅子のある理由も見あたらないので、大神は、うっかり逆行君改めどっきり逆行君一号の中に入り、その椅子に腰掛けた。と、そこへ、外で作業している紅蘭の声。
「座ったらベルト締めといてな。移動中揺れるやろうから」
これは移動するものなのかーそんなことを考えつつ、大神は言われたとおり、椅子からのびているベルトで体をしっかり固定する。移動するにしては、車輪とか付いていなかったけど、と、首を傾げながら。
「移動するってどうやって?車輪は付いてないみたいだけど」
入り口を締めにきた紅蘭に、そのことを尋ねてみる。紅蘭はびっくりしたような顔をして大神を見た。
「ありゃ。まだ言っとらんかった?」
頷く大神。
「そら、申し訳ないことしたわ。なんや、もうすっかり伝えたような気になってたんやなー」
苦笑いをして、それから大神にこの装置の説明をしてくれた。それは実に驚くべき内容で、この実験が成功し、装置が完成品となれば、まさに世紀の大発明と呼ばれるようなものになると大神に実感させた。
「これはな、場所を移動するためのもんやないねん」
場所を移動するものでないのなら、いったいどこを移動するというのかー疑問に思った大神は素直にそれを紅蘭にぶつける。元々そのことについてちゃんと説明するつもりであったのであろう紅蘭は、一つ頷き、その言葉を告げた。
「時間や。この装置は、時間をさかのぼって過去に行くためのものなんや」
「過去?」
「せや。ごっつい発明品やろ?」
「あぁ、ほんと、すごいな」
得意げに笑う紅蘭に、大神もまた感嘆の言葉を惜しまない。素直な賞賛を浮かべた黒い瞳に見つめられ、紅蘭は照れくさそうにその頬を紅く染めた。
「それで?俺はどこに行くんだい?どの時代?」
「ん~。予定としては降魔戦争の頃がええかなって思っとるんやけどー。あ、そろそろ戸、閉めるで?」
返事も待たずに扉は閉められ、その狭い空間は暗闇に閉ざされた。
降魔戦争ーその言葉を聞いて大神は懐かしい人を思い出す。いや、思い出すというのは正確さに欠けるだろう。その人はいつだって、大神の心の中にいるのだから。
大神は懐かしくーそして少しだけ切なく、その人を思う。
藤枝あやめ。大神が誰よりも深く、深く愛した人。
降魔戦争の時代には、彼女は生きて、まだこの世界にいるはず。大神と出会ってもいない、そんな青年がいることすら知らない彼女ではあるが。
彼女を失い、もう随分時はたった。すっかり吹っ切れたと思っていたが、それでもやはり心は騒ぐ。彼女のことを思うーただそれだけのことで。
「大神はん、動かすで?」
そんな紅蘭の声に、大神は追憶の中から引き戻される。大神は大きな声で答えた。
「あぁ。いいよ」
低い稼働音が響く。装置が動き出したのだ。大神は目を閉じ、椅子にもたれた。今更何を心配しても仕方がない。もう逃げようもないのだから。今はただ、心静かに待つのみだ。成功か、失敗かーその結果が分かる時を。
「大神はん?」
紅蘭の声に大神は目を開けた。とはいえ目を開けようと開けまいと、暗闇の中では余り意味がないかも知れないが。
「なんだい?」
「もうすぐ出発やけど、その前に過去に行くにあたって注意することを教えとこ思うてな」
その注意事項は三つあった。
一つー過去の自分とはなるべく関わり合いにならないこと。
二つー過去の人に未来のことを告げてはいけないと言うこと。
そして三つー名前を告げるときは極力注意すること。覚えやすい名前を使うことはさけるようにする。特に未来であう可能性のある人に対しては。これは無用の混乱を避けるためと、紅蘭はそう言っていた。
どんな偽名を使おうかーそう尋ねると、紅蘭はあっさりと、一郎でいいだろうと答えた。その提案に大神も頷く。それは日本でよくある名前だし、それに使い慣れない名前では逆にぼろが出る可能性もあるだろうから。
過去の世界にはおおよそ五日間ほどの滞在になるだろうと紅蘭は言った。五日間も劇場を離れて平気なのかと不安になったが、紅蘭が言うには、向こうで五日たっても、こちらでは一分か、長くて五分ほどの時間でしかないらしい。不思議に思い紅蘭に説明を求め、その解説に耳を傾けていた大神は不意に自分の周囲の異変に気がついた。
それは煙だった。どこからともなく漏れ出た白煙が、大神の周りに立ちこめている。
「紅蘭!煙が!!」
叫ぶと、外から紅蘭の焦ったような声が聞こえた。
「あかん。こら、やばいで。大神はん、逃げて!早う!!」
「分かった。俺もすぐ行くから。君は先に離れてるんだ!」
そう言って立ち上がろうとした大神は、自らの腰をしっかり固定したベルトに気付いて
舌打ちをした。手を伸ばし、はずそうとするが、これがなかなかはずれてくれない。気ばかりが焦って、手は全く言うことを聞かなかった。
「大神はん、急いで!!」
外から聞こえる紅蘭の悲鳴のような叫び声。
分かってるー心の中で答えるものの、作業はいっこうに進まない。大神の額を冷たい汗が流れた。
「っ!!あかん。爆発する!大神はん!!」
そんな紅蘭の声とほぼ同時に、それはおきた。
白く塗りつぶされた視界。爆音は聞こえなかった。ただ、体を襲う焼け付くような痛みに、大神は自分が間に合わなかったことを理解した。
一瞬の浮遊感ー遠くで響く紅蘭の声を聞きながら、大神は静かにその意識を手放したのだった。
ーそうだった。俺は爆発に巻き込まれて…
大神はぼんやりと自分が置かれた状況を理解しはじめていた。だが、けがのためか、ショックのためか、ゆっくりとしか物事を考えることができない。そのことが酷くもどかしかった。
紅蘭は大丈夫だろうか、と、思う。自分がこうしてけがを負っていくらいだ。彼女が無事であると言い切ることはできない。もちろんこのけがには、自分がより爆心に近かったこともあるのだろうが、それでも彼女の元気な姿を見るまでは安心できそうもなかった。
我ながら心配性だとは思うけれどー大神はかすかな微笑を浮かべ、それからゆっくりと首を巡らせて辺りの様子を見た。ただそれだけの動作なのに、体中が悲鳴を上げる。顔をしかめ、大神はそれ以上の行動を諦めた。
早く劇場に戻らなければ、と、気ばかりが焦る。そんな中で大神はふと思う。果たして自分は劇場へ戻ることができるのだろうか?-と。
大神がそう考えたのは決してけがのことだけが理由ではなかった。