花の名前4
へんな男だーとはマリアの大神に対する正直な感想だった。
食事の後、眠りはじめた大神を置いて、マリアはいつものごとく酒場へと向かっている。日々の生活がかかっているのだ。そう簡単に休むわけにも行かない。
その酒場へ続く道を一人歩きながら、マリアはずっと彼のことばかりを考えていた。
日本という島国出身の、突然現れた不思議な男。彼がいったい何者なのかということは結局まだ何も聞き出せていない。軽い食事を終えた後、彼が再びまどろみの中に戻ってしまったせいだ。
どうも調子が狂うーマリアは軽い吐息を漏らして思う。いつもはこうじゃないのに、と。
頭の中に浮かぶのは、あの脳天気としか形容使用のない笑顔を浮かべる青年の顔だ。何が楽しいのか分からないが、彼はマリアの顔を見るたびにとろけるような笑顔をその面に浮かべる。真面目な顔をしていればそれなりに精悍な顔をしているというのに、笑うととたんに情けない顔になるのだ。
マリアは情けない男は好きじゃない。それなのになぜか彼の笑った顔を、決して不快ではないと感じる自分がいる。
それに彼を見るとなぜかある一人の男が思い出されて仕方がないのだ。まるで似ていない、共通点もない二人だというのに。
黒糸の髪に金糸の髪。黒曜石の瞳と青玉の瞳。もちろん顔立ちだって違う。それなのにどこか似ているー。
いったいどこが似ているというのか?あの人と、あの男とー少し考えて、その答えに行き着く。
それは瞳だ。一郎という日本の青年は、なぜかとても優しい目をしてマリアを見る。それはそれは優しく柔らかな眼差しでー。それはかつてあの人がマリアにたいして向けた眼差しとよく似たものだった。
それから、食べたいものは何かと聞いたとき、彼の口から飛び出したあの言葉ー。ボルシチは、あの人が好きな料理の一つだった。だからその名前が彼の口から出たときは、声も出ないくらい驚いた。
そしてそれと同時に思い出した。かつてともにいた頃の、あの人ののまぶしいくらいの笑顔をー
ボルシチが食べたいー彼の口からその言葉を聞いたのは、決戦前夜のことだった。
ユーリー=ミハイル・ニコラーエビッチ
彼はマリアの人生に劇的な変化を与えた人物であった。
よく、笑う男だった。正義感が強く、男気があり、明るく、優しい心根のその男は誰からも慕われ、頼りにされていた。
はじめはただのお節介な男としか思わなかった。目障りだとしか感じていなかった彼を、特別なものとして意識し始めたのはいつのことだったかー今となっては思い出すこともできない。彼はまるで空気のように自然に、さりげなく、いつの間にかマリアの心の中に入り込んでいた。同じものを目指し、共に戦い、過ごすうちに、彼は彼女の中で消すことのできない大きな存在へと変わっていったのだった。
その夜ー運命の日の前夜。
眠れずに、野営地の見回りをしていたマリアはたき火の前に座る彼の姿に気がついた。もう、軽く深夜を回っている。
彼も眠れないのかーそんなことを思いながら後ろから近づいていくと、気配に気がついたのか振り返り、そこにマリアを見つけて彼はにっこりと笑った。それはいつもと同じ、マリアを落ち着かなくさせるーそんな笑顔だった。
一瞬、踵を返して逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。だがマリアはそれを行動に移すことなく、顔に出すこともせずにそのまま進んで彼の隣に腰を下ろした。
「眠れないのか?」
彼のそんな問いかけに、それはあなたの方でしょうと返すと、
「違いない」
そう言って彼が笑う。その笑い顔に再び胸の高鳴りを感じ、マリアは横目でそっと彼の顔を見上げた。それに気付いた彼が目を優しく細めてマリアを見る。その眼差しに思わず頬を染めたマリアは、目の前にある炎へと目を移した。その火の赤さが頬の紅さを隠してくれればいいと、そんなふうに思いながら。
「明日の戦いが気になるのか?」
「ー明日の戦いはきっと今までで一番激しいものとなるでしょうから」
気にならない方がおかしいと、自分を見上げるマリアの素直な瞳と出会い、彼はまた少し笑った。柔らかな金髪に大きな手の平を乗せ、普通はそうなんだろうなーと、そう言いながら。
普通はーその言葉を聞きとがめて、マリアが怪訝そうな顔をする。
「あなたは違うんですか?」
「違う訳じゃあ、ないけどな」
そう言ってその面に苦笑を浮かべる。そしてそのままマリアの耳元に唇を寄せ、内緒話をするようにそっとささやいた。実は、腹が空いて眠れないーと。
予想もしていなかった答えに不意をつかれ、唖然として彼を見上げてしまう。そんなマリアの表情に彼は照れくさそうに頭に手をやった。とたんにグーッと彼の腹の虫が大きな音をたてて騒ぎだした。
堪えきれずに吹き出してしまうマリア。その横で、彼もまた、目の淵を紅くして笑った。
それはこれから始まる戦闘など感じさせないくらい穏やかで、優しい時間。二人は静かに目の前の炎を見つめていた。
やがてー。東の空がうっすらと白みだしたのを見て、マリアは立ち上がる。こちらを見上げる彼に微笑み、
「もうすぐ朝です。少し休んでおきます」
そう告げた。
「そうか…」
彼もマリアに微笑んだ。その瞳を見返して、あなたも少し眠ってくださいーそう言うマリアに、眠れるかな?-と渋い顔で返す彼。空腹を訴える腹に手を当てたまま、何とも情けない顔をしている。そんな彼に、マリアは言った。
「戦いが終われば、食料も手に入ります。そうしたら、あなたの好きなものを何でも作ってあげますよ。だから、それまでの我慢です」
「ーそうだな。後もう少しの辛抱だ。マリアの料理を楽しみに頑張るか」
そう言って、彼もまた立ち上がった。うーんと、大きくのびをした彼に、何か食べたいものはあるのか尋ねてみる。
「-マリアの作った、ボルシチが食いたい」
迷うことなく、照れもせず、真っ直ぐな眼差しで告げられた言葉に、マリアは白い頬を紅に染めて、顔をそらせた。
「-物好きですね」
並んで歩きながら照れ隠しにそう言うと、彼は再びあの優しい眼差しをマリアに向けた。
「そうか?マリアの料理は世界一うまいよ」
笑いながら平気でそんなことを口にする。マリアはさらに顔を紅くして上目遣いに彼をにらんだが、それも長くは続かず、最後には「仕方ないですね…」と嘆息した。いつだってマリアは彼にかなわない。そのことは自分でもよく自覚していることなのだから。
分かれ道ー。彼は左へ、マリアは右へ。それぞれに割り当てられた天幕へと戻るため、二人は別れて歩き出す。
しばらくそうして歩いた後、不意に彼が振り向いてマリアを呼んだ。
「マリアー」
立ち止まり、彼を顧みたマリアは、自分を見つめる真剣な眼差しに目を見開いた。
「隊長?」
問いかけるような、そんなマリアの声に、彼は口を開きかけーそれから思い直したようにその口元に苦笑を刻んだ。
「いや。なんでもない。焦って言うことでもないしな。この戦いが終われば、いくらだって時間はあるさ…」
「…?」
食事の後、眠りはじめた大神を置いて、マリアはいつものごとく酒場へと向かっている。日々の生活がかかっているのだ。そう簡単に休むわけにも行かない。
その酒場へ続く道を一人歩きながら、マリアはずっと彼のことばかりを考えていた。
日本という島国出身の、突然現れた不思議な男。彼がいったい何者なのかということは結局まだ何も聞き出せていない。軽い食事を終えた後、彼が再びまどろみの中に戻ってしまったせいだ。
どうも調子が狂うーマリアは軽い吐息を漏らして思う。いつもはこうじゃないのに、と。
頭の中に浮かぶのは、あの脳天気としか形容使用のない笑顔を浮かべる青年の顔だ。何が楽しいのか分からないが、彼はマリアの顔を見るたびにとろけるような笑顔をその面に浮かべる。真面目な顔をしていればそれなりに精悍な顔をしているというのに、笑うととたんに情けない顔になるのだ。
マリアは情けない男は好きじゃない。それなのになぜか彼の笑った顔を、決して不快ではないと感じる自分がいる。
それに彼を見るとなぜかある一人の男が思い出されて仕方がないのだ。まるで似ていない、共通点もない二人だというのに。
黒糸の髪に金糸の髪。黒曜石の瞳と青玉の瞳。もちろん顔立ちだって違う。それなのにどこか似ているー。
いったいどこが似ているというのか?あの人と、あの男とー少し考えて、その答えに行き着く。
それは瞳だ。一郎という日本の青年は、なぜかとても優しい目をしてマリアを見る。それはそれは優しく柔らかな眼差しでー。それはかつてあの人がマリアにたいして向けた眼差しとよく似たものだった。
それから、食べたいものは何かと聞いたとき、彼の口から飛び出したあの言葉ー。ボルシチは、あの人が好きな料理の一つだった。だからその名前が彼の口から出たときは、声も出ないくらい驚いた。
そしてそれと同時に思い出した。かつてともにいた頃の、あの人ののまぶしいくらいの笑顔をー
ボルシチが食べたいー彼の口からその言葉を聞いたのは、決戦前夜のことだった。
ユーリー=ミハイル・ニコラーエビッチ
彼はマリアの人生に劇的な変化を与えた人物であった。
よく、笑う男だった。正義感が強く、男気があり、明るく、優しい心根のその男は誰からも慕われ、頼りにされていた。
はじめはただのお節介な男としか思わなかった。目障りだとしか感じていなかった彼を、特別なものとして意識し始めたのはいつのことだったかー今となっては思い出すこともできない。彼はまるで空気のように自然に、さりげなく、いつの間にかマリアの心の中に入り込んでいた。同じものを目指し、共に戦い、過ごすうちに、彼は彼女の中で消すことのできない大きな存在へと変わっていったのだった。
その夜ー運命の日の前夜。
眠れずに、野営地の見回りをしていたマリアはたき火の前に座る彼の姿に気がついた。もう、軽く深夜を回っている。
彼も眠れないのかーそんなことを思いながら後ろから近づいていくと、気配に気がついたのか振り返り、そこにマリアを見つけて彼はにっこりと笑った。それはいつもと同じ、マリアを落ち着かなくさせるーそんな笑顔だった。
一瞬、踵を返して逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。だがマリアはそれを行動に移すことなく、顔に出すこともせずにそのまま進んで彼の隣に腰を下ろした。
「眠れないのか?」
彼のそんな問いかけに、それはあなたの方でしょうと返すと、
「違いない」
そう言って彼が笑う。その笑い顔に再び胸の高鳴りを感じ、マリアは横目でそっと彼の顔を見上げた。それに気付いた彼が目を優しく細めてマリアを見る。その眼差しに思わず頬を染めたマリアは、目の前にある炎へと目を移した。その火の赤さが頬の紅さを隠してくれればいいと、そんなふうに思いながら。
「明日の戦いが気になるのか?」
「ー明日の戦いはきっと今までで一番激しいものとなるでしょうから」
気にならない方がおかしいと、自分を見上げるマリアの素直な瞳と出会い、彼はまた少し笑った。柔らかな金髪に大きな手の平を乗せ、普通はそうなんだろうなーと、そう言いながら。
普通はーその言葉を聞きとがめて、マリアが怪訝そうな顔をする。
「あなたは違うんですか?」
「違う訳じゃあ、ないけどな」
そう言ってその面に苦笑を浮かべる。そしてそのままマリアの耳元に唇を寄せ、内緒話をするようにそっとささやいた。実は、腹が空いて眠れないーと。
予想もしていなかった答えに不意をつかれ、唖然として彼を見上げてしまう。そんなマリアの表情に彼は照れくさそうに頭に手をやった。とたんにグーッと彼の腹の虫が大きな音をたてて騒ぎだした。
堪えきれずに吹き出してしまうマリア。その横で、彼もまた、目の淵を紅くして笑った。
それはこれから始まる戦闘など感じさせないくらい穏やかで、優しい時間。二人は静かに目の前の炎を見つめていた。
やがてー。東の空がうっすらと白みだしたのを見て、マリアは立ち上がる。こちらを見上げる彼に微笑み、
「もうすぐ朝です。少し休んでおきます」
そう告げた。
「そうか…」
彼もマリアに微笑んだ。その瞳を見返して、あなたも少し眠ってくださいーそう言うマリアに、眠れるかな?-と渋い顔で返す彼。空腹を訴える腹に手を当てたまま、何とも情けない顔をしている。そんな彼に、マリアは言った。
「戦いが終われば、食料も手に入ります。そうしたら、あなたの好きなものを何でも作ってあげますよ。だから、それまでの我慢です」
「ーそうだな。後もう少しの辛抱だ。マリアの料理を楽しみに頑張るか」
そう言って、彼もまた立ち上がった。うーんと、大きくのびをした彼に、何か食べたいものはあるのか尋ねてみる。
「-マリアの作った、ボルシチが食いたい」
迷うことなく、照れもせず、真っ直ぐな眼差しで告げられた言葉に、マリアは白い頬を紅に染めて、顔をそらせた。
「-物好きですね」
並んで歩きながら照れ隠しにそう言うと、彼は再びあの優しい眼差しをマリアに向けた。
「そうか?マリアの料理は世界一うまいよ」
笑いながら平気でそんなことを口にする。マリアはさらに顔を紅くして上目遣いに彼をにらんだが、それも長くは続かず、最後には「仕方ないですね…」と嘆息した。いつだってマリアは彼にかなわない。そのことは自分でもよく自覚していることなのだから。
分かれ道ー。彼は左へ、マリアは右へ。それぞれに割り当てられた天幕へと戻るため、二人は別れて歩き出す。
しばらくそうして歩いた後、不意に彼が振り向いてマリアを呼んだ。
「マリアー」
立ち止まり、彼を顧みたマリアは、自分を見つめる真剣な眼差しに目を見開いた。
「隊長?」
問いかけるような、そんなマリアの声に、彼は口を開きかけーそれから思い直したようにその口元に苦笑を刻んだ。
「いや。なんでもない。焦って言うことでもないしな。この戦いが終われば、いくらだって時間はあるさ…」
「…?」