花の名前4
訳も分からず首を傾げるマリアに、彼は柔らかな笑みを向ける。
「お休み、マリア」
そう言って背を向けた彼を、マリアは瞬きもせずに見送った。なぜか、理由もなく胸が騒いだ。
そうして彼の背が見えなくなるまで見送った後、マリアもまた自分の天幕へと向かう。彼が何を言いかけたのかー気になりはしたが、また別の機会に聞き出すこともできるだろうと、自らを納得させて。
それがかなわぬことになるとも知らないままー
それは、マリアと彼との最後の夜の記憶ー見上げた空に無数の星の散る、美しい夜のことだった。
「よぉ、マリア。何こんな所でぼーっとしてんだ?」
突然かけられた声に思考を中断されたマリアは、自分がいつもの酒場の前に立っていることに気がついた。考え事をしながら歩くうち、いつの間にかついていたのだろう。どうやらそのことにも気付かずに、ずっと物思いに耽っていたようだ。
マリアは目の前の建物を見上げ、それから振り向いて自分に声をかけた相手を見た。
そこにあったのはにやにやと人を食った笑みを浮かべる男の顔。その顔を一瞥し、マリアは小さく息をつく。面倒な相手にあってしまったとばかりに。
ボードウィル・グラスマンーアメリカ生まれのこの男は、なぜかいつもマリアにつきまとう。それはもう、うるさいくらいに。悪い男ではないのだが、そのことにはいつも辟易させられた。
しかし、そうやって鬱陶しく感じつつも、マリアはこの陽気な男を決して嫌っているわけではなかった。だからといってそれは好きということと同意でもなく、彼に特別関心があるかと問われれば、否と答える他はないのだが。
マリアの心に彼の居場所はない。マリアの心にあるのはただ一人の人。思いを伝えることもないまま永遠に失われた、誰よりも愛しい男。それ以外の誰の入る余地も、彼女の心にはないはずだった。
そのはずなのに、今、そこに入り込もうとする者がいる。マリアの心の、ほんのわずかな隙間から。
昨日傷ついた彼を見つけてからまだ一日と経っていない。それなのに彼という存在を胸の内から閉め出すことのできない自分に、マリアは気付いていた。
不思議な青年だ、と思う。彼の素直な笑顔もその瞳も、人の心を不思議と和ませる。それは凍てついたマリアの心も例外ではなかった。
彼のことを考えながら、マリアは酒場の扉を押し開ける。そこから漏れ出たもうすっかり嗅ぎなれてしまった匂いに目を細めーマリアはゆっくりとその中に足を踏み入れた。
入り口にたち、カウンターの向こうにいる店主を見る。彼の瞳が彼女の姿を認め、そして頷きが返ってくるのを確認し、マリアはいつもの定位置へと足を向けた。
店の隅ー酒場の喧噪からわずかに離れたその場所に腰を落ち着けて、ゆっくりと薄暗い店内を見回した。まだ時間も早いせいか、酒に飲まれて暴れ出す者は見受けられない。荒れくれ共は、日頃の鬱憤を晴らすかのように豪快に酒をあおり、陽気に肩をたたき合い、笑いあっている。マリアの出番はまだ当分ありそうになかった。
視線を目の前のテーブルへと戻し、マリアは再びあの青年のことを思った。彼のついて知っていることはごくわずかだ。
日本人だと言うこと、一郎という名前だと言うこと、そしてなぜか、マリアの名を知っていると言うことー。それは本当にささやかな情報にすぎない。彼に対する探求心を満足させるにはまるで足りないその情報を前に、マリアはじっと、思いを凝らすようにして一郎という青年のことを考える。
彼は何者なのか?なぜマリアの名を知っているのか?いったいどんな経緯をたどってこの場所へーマリアの目の前に現れたのか?
聞きたいことは山ほどあった。だが、そんな大量の疑問を押しのけて、マリアの心に浮かんだのはただ一つの問い。
ーなぜ彼は、私にこんなにもあの人のことを思い起こさせるのか…?
それは、たとえ彼に問いただしたとしても決して答えの見つかる質問ではないだろう。第一彼は、マリアの言う「あの人」を知りもしないはずだ。だが、それでも彼女は聞いてみたかった。なぜ彼の笑顔はあんなにもあの人のものと重なるのか、と。今までどんなに望んでも決して思い描くことのできなかったあの笑顔にー
彼が壮絶な死を遂げてマリアの前からいなくなりー気がつくとマリアはあの人の顔を思い出すことが出来なくなっていた。彼を思うとき、脳裏に浮かぶのはいつも変わらぬただ一つの映像。それは無数の銃弾をその身に受けて、白い大地を深紅に染め上げ倒れる、愛しい人の姿。ずっとずっと思い出せなかったのだ。彼の声も、笑顔も、そのまなざしさえもー
そして再びマリアはあの青年を思う。彼は今どうしているだろう。まだ眠っているのだろうか?それとも目を覚まし、マリアの不在を心細く思ってはいないだろうかー?
もちろん彼とて一人前の男だ。そんな心配は無用だろうが、それでもマリアは彼のあの深い瞳を思い、なぜかその身を案じている。
不思議な気持ちだった。自分が再び、他の誰かをこんな風に気にかけるようになるとは思ってもいなかった。あの日、彼を失ったあの瞬間ー自分の心は永遠に溶けない氷に閉ざされたと、そう思っていたのにー
不意にさして明るくもない照明を遮るように立ちはだかる人影に気付いたマリアは、顔を上げその人物を見上げる。そこに見慣れたアメリカ男の顔を見つけ、彼女は小さく嘆息し、
「…邪魔よ」
にべもなくそう言い放つと、冷たく彼を睨んだ。しかし彼ーボードウィルはそんな彼女の眼差しに臆することもなくそのとなりの腰掛けてくる。にやにやと、人を喰ったような笑みには腹も立つが、それでも彼のそんな表情に悪意は感じられない。再び漏れる小さな吐息。それに気付かない振りをして、怒りの表情すらも美しい彼女の顔を見つめるボードウィル。しばらく彼を睨みつけていたマリアだが、結局その存在を無視することに方針を決めたらしい。素っ気ない仕草で彼から目をそらし、その視線をそのまま薄暗い店内へと転じた。
「そう冷たくするなよ」
そんなマリアを見たボードウィルは、言いながらマリアの目の前に持っていたグラスを置いた。その透明な液体に満たされたグラスに目を落とし、それから再び顔を上げ隣に座る男に、それで?ーと目で問うマリア。
そんなマリアの態度に男はその口元に隠せない苦笑を張り付け、飲めよ、そう促した。奢ってやるーそんなふうに言いながら。
押しつけがましい言い方だ、とマリアは思う。だがそんな言い方をしても妙に憎めない、そんな雰囲気をこの隣の男は持ち合わせていた。
いらないと、断ることは簡単だった。だが今日は、そうすることがなぜだかためらわれた。
ほんの少し考えた後、グラスを手に取ったマリアを見たボードウィルは、目をまん丸く見開いてその驚きを表現する。彼の酒を彼女が断らなかったのはこれが初めてのことだった。
「-なに?」
なみなみとつがれた酒を飲み干して、グラスをテーブルの上に戻したマリアは、自分を凝視する男に短く問う。翡翠の瞳に彼の顔を映しながら。
その鋭く澄んだ眼差しに思わず目を奪われた彼は、返事をするのも忘れて彼女に見入ってしまう。