花の名前5
しばらくして彼女の唇が紡いだのはそんな言葉。素っ気なく、どこか投げやりな、そんなー。
そして彼女は目を閉じた。まるで全てを諦めてしまったかのように。少なくとも大神の目にはそう映って見えた。
訳の分からない悲しみが胸をふさいでいくのが分かる。どうしようもなく悲しくて、切なくてー大神は黙って彼女に背を向けた。
出来る限り壁により、背中を丸めて目を閉じる。今は何も感じたくなかった。彼女の気配も、その息づかいさえもー。
「なぜ?」
しばしの空白のあと彼女の声が大神に問いかける。
放って置いてくれーそう、叫びだしたいような衝動を、大神は拳を握り、自分の中へ押し込めた。今の自分の感情が理不尽なものであることは分かっている。彼女は何も悪くはないし、彼女の言葉に、態度に、自分が勝手に傷ついて落ち込んでいるだけなのだから。きっと明日になれば普通に振る舞える。あと1時間でもーいや30分でも間をおけばなんでもなかったように彼女と向かい合えるだろう。
でも、今はダメだ。とても彼女と向き合えそうもない。今の自分はきっと情けない顔をしているに違いない。そんな顔を彼女に見られたくなかった。だからー
「もう、遅い。俺も寝るから、君も、寝た方がいい」
大神はその場を濁すようにそう言った。そして自分の言葉の通りに目を閉じ、口をつぐむ。背後からはもの問いたげな気配が伝わってきたが、大神の、「これ以上何も言いたくない」そんな気持ちを敏感に感じたのかーそれ以上の問いが重ねられることなく、代わりに、
「-分かった」
そんな短い彼女の言葉が小さく大神の耳に届いたのだった。
しばらくしてー背中越しに聞こえてきたのは彼女の静かな寝息。
大神の口元に小さな苦笑いが浮かぶ。
よほど疲れて眠かったのか、それとも大神などは眼中に入っていないだけなのかーここまではっきりしているといっそ清々しいくらいだ。
だが、それと同時にこうも思う。彼女がこうして側に置いてくれることは、それ自体が心を許してくれている証なのかも知れないと。男としては見てもらえてないのかも知れないが、そう考えるとなんだか少し嬉しくもあった。
静かに寝返りを打ち、大神は天井を見つめる。夜の沈黙がおりたこの部屋に響くのは大神のかすかな息づかいと、マリアの寝息だけ。
大神は口元をかすかに微笑ませ、そっとマリアの方へ首を傾けた。
暗闇に、ほのかに白く浮かぶ彼女の横顔。目を閉じ、鋭い眼差しをその奥に隠したそのの顔は、年相応に幼くあどけない。
優しく、優しく彼女を見つめながら、
ー好きだよ。君が好きだよ、マリア
胸に満ちる苦しいまでのその思いを心の中で言葉に変える。
声に出して伝えるにはまだ勇気が足りないけれど、いつかーいつの日にか真っ直ぐに彼女の目を見て伝えられる日が来ればいいと思う。
伝わる温もりが愛しくて、切なくてー大神は息苦しいような幸福感の中、ただ壁を見つめた。
彼の長い夜は、まだまだこれからだった。
『だめ…』
そんなかすかな声に揺り起こされて、大神はそっと目を開けた。
考え事をするうちにいつの間にか微睡んでいたらしい。まだ眠り足りないと訴える瞼をこじ開け、色気も眠気には勝てなかったかと苦笑い。薄明るい部屋は、もうすぐ夜明けなのだと、そのことを伝えていた。
『行かないで…お願い…』
再び背後から聞こえる声。全く理解不能なその響きに首を傾げ、だがすぐにそれが彼女の母国ーロシアの言葉だと言うことに気がついた。
ーロシアでの夢を見ているのか…?
多分そうなのだろう。だが、その夢が決して楽しいものでないことも分かる。言葉の意味は分からないものの、それでも彼女の声の響きは楽しそうでも幸せそうでもなくーそれは酷く切なく悲しそうな響きを大神の耳へ伝えていた。
『だめ…いけない…。行ったらあなたは…』
その言葉の内容を理解できないことがもどかしくて仕方なかった。
大神は背を向けたままで考える。起こした方がいいのか、それともこのままそっとして置いた方がいいのかー
そんな時、ひときわ高く彼女の声が狭い部屋の中に響いた。
『お願い。死なないで…。そばにいて…ユーリー…』
ユーリー。その名前には覚えがあった。
彼はマリアがロシアにいた頃の隊長であり、彼女が心からの信頼を捧げ、そしてーたぶん彼女が生まれて初めて愛した男。その彼が、マリアの見るその目の前で真っ白の雪にその命を散らしたことは、いつだったかマリア本人の口から直接聞いて知っていた。彼女が随分と長い間、その瞬間の幻影に悩まされ続けていたことも。
だから、瞬間的に大神は悟っていた。彼女がその時の悪夢を夢に見ていること。今まさに彼が死に至ろうとするその時の映像が彼女の目の前で再び繰り返されようとしていることをー
そんなことはさせられない、そう思った。
なんのためらいもなくマリアの方を向き、大神は震える彼女の肩を腕の中に抱きしめる。
愛する人を失う恐怖にこわばった少女の体を何とかしてあげたくて、さらさらの金髪をぎこちなく撫で下ろしながら、大神はその耳元に何度も何度もささやいた。
大丈夫だよ…安心して…俺はここにいるよ…ずっとずっと、君のそばにいるから…
その言葉がどれだけ彼女の心に届いたのかは分からない。だが、ゆっくり、ゆっくりと彼女の体からこわばりが消えーやがては穏やかな寝息が大神にも聞こえてきた。
ほっと息をつき微笑む大神。細い体を抱きしめていた腕を解き、そのまま腕枕をして彼女の寝顔を見つめた。
涙に濡れた頬を手の平で拭い、額に触れるだけの優しいキス。
もう彼女が泣かなくて済むように…悲しい夢を見なくてもいいようにーそんな思いを込めて。
腕に感じるのは愛しい少女の重み。大神は彼女を守るようにそっと腕を回すと、再び静かに目を閉じた。
こんな状態で眠れるとは思えなかったものの、なんだかとても満ち足りた、幸せな気持ちだった。
微笑み、彼はじっと耳を澄ます。自分の鼓動と、彼女の鼓動とー心を凝らして聞き入るうちに、二つの鼓動がだんだんと重なり合って聞こえる気がした。
トクン…トクン…トクン…トクン…
そんな規則的な律動が大神を眠りへと誘い込む。腕の中の愛しい存在を壊さないように、でもしっかりと抱きしめたままー大神は再び微睡みの中へと落ちていった。