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現在(いま)と未来を繋ぐもの

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1.現在と未来を繋ぐもの@未来

 俺は最近、妙な爺さんに気に入られている。
「先生、わしの孫は別嬪さんでな、一度会ってみんか?」
「はいはい、今度ね」
「先生、信じとらんようじゃが、本当に一目で虜になってしまういい女じゃぞ!?」
「へえ~、そりゃぁ楽しみだ」
 俺は棒読みの台詞宜しくそう言いながら、爺さんの病衣を捲って腹にそっと触れた。全身痩せこけたところに、腹だけが異様に膨らむ。それは口だけは元気なこの爺さんの状態が、実はあまり良くないことを表していた。
 研修二年目ともなると、口先だけでの患者あしらいも上手くなり、軽く受け流せるようにはなっているが、それでも行く度毎に言われると疲れるものだ。この爺さんだけじゃない、同じ様な事を言ってくる婆さんもこれから回る部屋の患者の中に複数いる。
(可愛い孫を、医師の卵ってだけで見知らぬ他人に託そうとか思うものかね。理解できないな)
 研修が始まってから、この手の話は遍く星の数ほど俺の上に降り注がれ、もうウンザリだった。この爺さんも、孫より自分の心配が先じゃないのかよ。
 そう思いながら、そっと開けた薄い布地を丁寧に元に戻し、薄い布団を掛けた。
「なぁ先生。先生は赤い糸って信じるか?」
「はぁ?」
 この場にそぐわぬ話題に、俺は手術用の糸に赤なんてあったっけな。と、見当違いな事を思い浮かべる。
「ほら、男と女のあれじゃよ」
「あ、ああ・・・」
 何と言ったものか、返答に窮していると、爺さんはひとり話し続けた。
「わしも今はこんな老いぼれじゃが、若い頃はモテモテでな。選り取り見取りというやつだ。今の先生みたいなもんだ」
 そこで話を切ってじっと俺の目を見た眼差しがあまりに真剣過ぎて、一瞬見入る。さくっと話を遮って次の患者へ行かなければ時間が無いというのに、俺は惹き込まれてしまっていた。動けない。
「先生、赤い糸を逃してはいかんよ。わしが、先生の赤い糸じゃ」
「へ?」
 ふははははは・・ 大きな口を開けて笑い出した爺さんに、俺は漸くからかわれたのだと理解し、赤面する。引き攣った顔のまま次の部屋へ移った。後ろの看護師長がクスクスとまだ笑っている。
(爺ぃぃ、くっそ~~、覚えてやがれ)
 一通り病室を回り、ナースステーションでカルテを記入していると、あの爺の分が回って来た。取り敢えず今日、明日如何にかなりそうな状態でもないが、念の為緊急連絡先を確認する。
OO弁護士事務所・顧問弁護士、××× ××
 これがあの爺さんに何かあった時の連絡先だ。孫どころか子供すらいない爺さんの、俺は最後の楽しげな嘘に付き合っているわけで。
「しかしあの爺ぃ、言うに事欠いて『わしが赤い糸』とか言うかな・・」
 小さな独り言に、側に居た看護師長が噴き出す。
「若先生、愛されてますね」
 きっと若先生のことを孫みたいに思っているんじゃないかしら? 実家の総合病院の内科病棟の師長は、俺を子供のころから知っているから、側に誰もいない時には”若先生”なんてくすぐったいことを言ってくる。
 医者の経験値を少しでも上げる為に、俺は親父の病院に時間がある時には顔を出すようにしていた。親父の代わりに担当患者を診させてもらったり、他にも珍しい検査や症例なんかを勉強させてもらっている。どっちかというとそちらが目当てだ。
 親父の直接受け持つ患者は、お金なら幾らでも詰めるような金満患者で、特別フロアーでゆっくりと療養するといった面々だ。そう大した重症者は普通は居ない。爺さんだけが特別だった。
 不思議な魅力がある人で、廊下をふらりと歩くだけで人に囲まれる。動くのがきつい時には、入院仲間の婆さんや爺さんが入れ代わり立ち代わり部屋に訪ねて来て、話し相手になっていた。明るくて、妙に憎めない。だからこそ俺様も、爺さんの嘘に付き合っているわけで。
 そう、あの眼差しだ。あの目に見据えられると逸らせないんだ。話を聞こうかって気にさせる、不思議な目だ。
(あの爺ぃ、何で結婚しなかったんだろう?)
 俺は、それを直接訪ねるつもりはなかったけれど、とても知りたかった。あれだけ人心掌握に長けた男なら、女性の心など直ぐに掴めそうな気がしたから。それとも、若いうちは駄目男だったのか。次に部屋へ行った時には、孫に会わせろって言ってみるかな。そうしたらどんな顔をするだろう。いつもからかわれっ放しも悔しいから、少し突っ込んでやるか。あの爺のことだ、マジで案外いい女を紹介してくれるかもしれない。
 俺は、そんなことを考えながらカルテを閉じた。


 その日、早朝に俺は親父に起こされた。
「賢二、お前も来い」
 親父の運転する車で病院に向かう。車中親父は何も説明しなかったが、俺はあの爺の容体が悪いのだと察した。
 白衣を引っ掛けて向かった先は、親父の患者が入院している例の特別フロアーだ。驚いたのは、こんな時間に幾人もの爺さん婆さんが、廊下に出て心配そうに一つの病室に注目していることだった。それはあの爺さんの部屋で、廊下まで響く心拍モニターの音は、もう心臓が本来の機能を果たしていないことを伝える間隔でしか音を発していない。
 俺は信じちゃいないが、もしも魂という存在があるのなら、今まさにあの老いた体を抜け出ようとしているのではないだろうか。この場に集まった皆は、もうそんな事は解っているようだった。きっと見送っているんだ、皆で、あの爺さんを。
「就寝時は特にお変わりも無く。巡視の看護師が、呼吸の異変に気付いてモニターを。約一時間ほど前から急に心拍が落ちて来まして、三十分ほど前から血圧は測定不能です」
「そうか・・」
 看護師長が親父に小声で報告している。
 それを聞きながら俺は、何故か背中が急に冷たくなった。重症者が無くなることなど、医師になって何度も何度も経験している。何を今更と思うが、これまで感じた事の無い無力感に襲われていた。何だろう、如何言ったらいいのか、そう、まるで身内の誰かを亡くすような心持ちといったらいいだろう。気を許せば目の前が滲む。
「親父、廊下の人達、入れちゃ駄目かな?」
「ん?」
 振り向いた親父の目を見る。俺は悟られたくなくて、振り向くと廊下へ出た。低い声で、側でお見送りされたい方はどうぞ、と声を掛ける。直ぐに何人かが立ち上がり、部屋へ入って行く。結局、廊下には俺だけが残り、涙の代わりに何度も鼻を啜った。
 医者として見送る以上は泣かない。これは鉄則だ。深呼吸すると、俺は病室へ戻り最期の時を静かに、皆と待つ。
 窓の外は明るい陽射しが輝き、今日はいい天気になりそうだ。鳥の声がさえずりながら窓の外を飛んでいった。人々が起き始める頃、静かに、眠るようにいなくなった爺さんに、俺は医療スタッフとして心から頭を下げる。人が死ぬということを、機械的にではなく、感情的にこんなに端的に教えてくれた人に敬意を表して。
 

 鏡の前で黒いネクタイを締める。