花の名前6
白い花?-マリアは様々な色の中に白を探して目を凝らす。その花はすぐに見つかった。大輪の、純白の花を咲かせるそれはー
「カサブランカ、ね」
「カサブランカ?」
「あの花の名前よ」
「そう、か…あの花の名前か」
そう言ったきり、大神は不思議なくらい熱心にその花を見つめていた。しばらく黙って彼の横顔を見つめていたが、あまりに長くそうしているのでさすがに声をかけようとしたとき、不意に口を開いた彼が、
「いつだったかな…。俺、あれと同じ花を見たことがあるよ」
呟くようにそう言った。なんだかとても、懐かしそうな口調で。
「綺麗な花だって思った。とても綺麗な…。その時思ったんだ。君にー」
言いながら振り向いた彼は、じっと自分を見つめるマリアに気付き、不意をつかれたような顔をして、それから少し、照れくさそうに笑った。
「私に…なに?」
途中で止まった言葉の先が気になって尋ねると、彼はひどくうろたえたように顔を背けてしまう。怒っているわけではないと思う。その証拠に、彼の顔は耳まで真っ赤に染まっていた。
例の花を横目でちらっと見て、マリアは彼に一つの提案をしてみる。
「欲しいのなら、買ってもいいけど?」
「えっ?」
一瞬、何を言われているのか分からなかったらしい。間の抜けた顔で聞き返す彼に、マリアは目線だけで彼のお気に入りを示して見せた。
「どうする?買うの?」
重ねて尋ねた。花の一本や二本、大した出費ではない。彼が欲しいというなら買ってもいいような気がしたのだ。
だが、マリアの申し出に対し、彼は首を縦には振らなかった。彼はゆるゆると首を横に振ると、ありがとうーと、マリアに微笑んだ。
そのあまりに屈託のない笑顔に、己の意に反して頬が熱くなるのを感じた。それを彼に悟られたくなくて、マリアは慌てて彼から顔を逸らし、歩き出す。彼をその場に残したまま。
待ってよ、マリアー後ろから彼の声。マリアはそんな彼の声に耳を貸さずに、だんだんと多くなってきた人並みをすり抜けるようにして歩き続ける。
しばらくそうして歩き続け、マリアはふと足を止めた。さっきまで聞こえていた彼の声が聞こえないのだ。しまったと思い周囲を見回すが、あの漆黒の髪はどこにも見あたらない。
マリアは息を一つつき、軽い自己嫌悪に視線を地面に落とす。あの黒髪の青年といる自分はいつになく感情的だ。
私らしくないーそんなふうに思う。本来の自分はこうではないはずなのに、と。彼といると調子が狂う。彼といると、昔の自分を思い出すのだ。人の背に守られてぬくぬくと生き続けていた自分ーそんな自分になど、もう、戻りたくないのに…
守られることになれて、自分の一番大切なものさえ守りきれないようなーそんな人生はもう二度と繰り返したくなかった。
だから、強くなろうと思ったのだ。一人で立ち、誰の助けが無くとも生きていけるくらい強く、強くー。
「マリアー」
名前を呼ばれ、顔を上げるとそこには、思わずこちらがほっとするような、そんな笑顔を浮かべた彼の顔。
ほら、やっぱり…
途方に暮れたような思いでマリアは彼を見つめる。
彼がこうして笑うだけで心が温かい。今まで頑なに築きあげてきた心の壁を端から突き崩されていくような気持ちさえする。
なぜ、彼なんだろうーマリアは思う。まだ出会って、ほんのわずかに時間しかたっていない、赤の他人と言ってもいい間柄でしかないのに。
根が生真面目なせいか、そんなふうに考え込んでしまう。だが、思い悩むマリアのことなど大神はまるでお構いなしだ。
大きな手の平でマリアの手を取り、にっこりと笑う。
「手をつないで帰ろうか?マリア」
凍えた手を包み込む暖かな温もりにマリアはそっと視線を落とし、それからことさらに冷たい声を作って問いかける。
「なぜ?」
しかし、大神はまるで動じない。鈍感なのか、脳天気なのか、はたまた大した大物なのかー大の男も追い払うマリアの眼差しも、冷たい声音も当の彼にはちっとも通じないようだった。
「だって、迷子になったら大変だろう?」
しれっと答える彼に、マリアはなんだか頭を抱えてしまいたいような気持ちにさせられる。
それはあなたの方でしょうーそう返すと、またもや彼は、平気な顔で答えてくれるのだ。
「そうだよ。だから、手をつなぐんだ。俺が迷子にならないように、ね」
ーよく分かってるじゃないか、マリア
そんな小憎らしいセリフでも、にっこり邪気の無い笑顔と対になっていると、不思議と腹も立ってこない。答えに窮するマリアの沈黙を了解と受け取ったのか、大神は嬉しそうに歩き出す。もちろんマリアの手をしっかりと握ったままで、だ。
早くもなく、遅くもなく、半歩先をゆく大神は、人々の流れからマリアを守るように歩いている。それがごく当然のことであるように、自然と、まるで嫌みを感じさせることなく。
マリアは少しうつむいて、彼の半歩後ろを歩いていく。左手を彼の手の平に包まれたまま、彼の温もりをその手に感じながら、ゆっくり、ゆっくりと。
そんな二人の背を赤く染め上げるように日が、静かに沈んでいこうとしていた。