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花の名前7

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夜の酒場は酒と煙草の匂いと男達の喧噪にあふれていた。
 扉の向こうの異空間に、ほんの一瞬足を止めた大神の横をすり抜けるようにして、少女はまるで臆することなく足を踏み入れる。そんな彼女を大神は驚き混じりの眼差しで見つめ、それから思い直すように小さく首を振った。
 ここは酒場だ。決して彼女のような年齢の少女が出入りしていい場所ではなく、慣れ親しむべき場所でもない。だが、それでも、ここもまた彼女の生活の一部なのだということを、大神は思った。
 彼女の背が、扉の向こうへ消える。振り返ることなく消えたその背を追うように、大神もまた暗い店の中へと足を踏み入れた。
 とたんに突き刺さるたくさんの眼差し。
 薄暗い店内を見回し、軽く目を見張る。
 店中の男達がマリアと大神を見ていた。彼らはまず苛立ちと確かな畏怖を込めた視線をマリアへと注ぎ、それから大神の方へと目を向ける。瞳に浮かぶ興味深そうな、訝しげな光を隠そうともせずに。
 そんな眼差しを大神は戸惑いながらも真っ直ぐに受け止めた。彼らを見返すその瞳はどこまでもひたむきで強い輝きに満ちている。
 迷いなく返される眼差しに、今度は荒れくれ男共が戸惑う番だ。彼らは一様に面食らったような顔をして、それからばつが悪そうに目を逸らす。そして手に持つグラスの中身を再びあおり始めるのだった。
 そんな彼らを不思議そうな顔で見回していた大神を、少し先でマリアが呼ぶ。慌てて駆け寄る大神を待ち、彼女はカウンターの向こうの初老の男性に早口の英語で話しかけた。
気むずかしそうなその男性は、上から下へとじろじろと大神を眺め、それからむっつりと小さく頷いた。マリアが再び彼に何かを話しかけ、彼もまたマリアに何事か答えている。早口で交わされる言葉は、大神にはちんぷんかんぷんで、だが、それでも何とか二人の会話を聞き取ろうと耳をこらしていると、不意にマリアが大神の方へ向き直って話しかけてきた。もちろん今度は日本語で。

 「雑用係としてなら使ってもいいと言ってるわ。英語は分かるわね?」

 「あぁ。なんとかね。あまり早口でなければちゃんと聞き取れると思う。話す方も日常会話程度なら大丈夫だよ」

 「そう…。じゃあ、私は隅のテーブルにいるわ。何かあったら声をかけて。あとのことはマスターが指示してくれるから」

 そう言うが早いか、彼女は大神をその場に残して店の片隅の定位置へと行ってしまった。
 大神は彼女の背を見送り、それからカウンターの向こうからじっとこちらを見ているマスターの方へ向きを変え、小さく頭を下げた。

 『一郎といいます。よろしくお願いします』

 『ま、せいぜい頑張んな。うちの客は気性が荒いのばっかりだ。なめられんようにするんだな』

 そんな言葉に神妙に頷く大神を見て、強面のマスターはにやりと笑う。そして、まずは皿洗いからだと、大神をカウンターの内側へと招き入れた。



 欲しいものが出来た。
 誰かに買ってもらったのでは意味がない。自分の金で買ってこそ意味のあるー。
 仕事をしたいといったとき、マリアは決していい顔はしなかった。
 強い口調で反対されたが、それでも大神は退かなかった。
 最後には、結局頷いてくれたマリアー。彼女が大神のためを思ってくれているのだと言うことはよく分かっている。
 優しいマリアー。
 その瞳が大神を案じてかすかに曇っていた。
 彼女を心配させているーその事実に胸が痛む。心配させたいわけではないのだ。
 ただ、彼女の笑顔が見たい。
 君がほんの少し微笑んでくれるだけで、たとえようもないくらい幸せになれる自分がいる。
 自己満足だ。ただの。そんなこと分かっている。
 それでもーそれでも、俺は…


 
 彼が何を考えているのか、さっぱり分からないーマリアは思う。
 まだ十分に回復していない、熱も下がりきっていないような体だというのに、いきなり仕事をしたいと言い出すのはどういうことなのだろう?駄目だと言っても聞きもしないーどこまでも頑固な態度の青年の様子を思い出すたび、マリアはこみ上げる吐息を押さえることが出来ずにいる。
 普段はまるでそんな感じはしないのにーマリアは働く大神の姿を見つめた。
 最初はカウンターの向こうでせっせと洗い物をしていたが、それも一段落したのだろう。今はフロアにでて男達の合間を縫うようにしながら給仕をつとめている。
 最初こそは慣れない仕事に手間取っていたようだが、もうだいぶなじんできたようだ。つたない英語を操りながらも絶やさぬ笑顔で仕事をこなしている。
 そんな彼はいかにも人が良さそうで、マリアの前で見せた頑固なその一面をまるで感じさせない。
 元気そうに見えるが、それでもやはり体調が良くないことは、マリアの目には一目瞭然だ。頬は上気して、隠そうとしてはいるものの、もうすでに息が荒くなっているのが分かる。注意深く見ていると、足下もふらつきがちだ。熱がぶり返してきたのだろう。
 少し休ませた方がいいだろうか?-マリアは考える。少し考えたあと、やはりそうした方がいいだろうと、席を立ち、働く大神に声をかけようとした。

 だが、マリアが声を上げるよりも先に、大神を呼ぶ者がいた。
 どこか聞き覚えのある声につられて視線を動かした先にお調子者のアメリカ人の姿を見つけ、軽く目を見張る。
 呼ばれた大神が、素直に彼の元へ向かうのが目に入った。
 どうしようかー一瞬考え、苦笑する。
 今の自分はまるで無防備な子供を持つ過保護な母親のようだ。それに、呼び止めようにも、客に呼ばれたボーイを引き止めるほどの理由があるわけでもない。
 マリアは再び椅子に座り直しながら、少し気がかりそうな眼差しで、静かに大神の背を見送った。



 彼はずっとその青年の様子を観察していた。見るからに人の良さそうな青年である。黒髪に黒い瞳のその男は、今まさに彼ーボードウィルの目の前に立っていた。
 驚きもせずに、ボードウィルは青年の顔を見上げた。それも当然のことである。何しろ、彼を呼びつけたのは他でもない、ボードウィル自身であったのだから。

 『ご注文ですか?』

 バカ丁寧な英語で尋ねる青年を、ボードウィルは無遠慮にまじまじと見つめる。それからちらりと店の片隅のマリアへと視線を走らせ、彼女の冷たい眼差しに向かい討たれて小さくため息。

 ーそんな食いつきそうな怖い目で見なくても別になにもしねぇさ…

 心の中で、そんなふうにぼやいてみる。
 マリア自身にはまるで自覚がないに違いない。自分がどんなに心配そうな目で、この黒髪の青年を見ているのか。そして、夢にも思っていないだろう。そんな彼女の様子に気付いている男がここにいることなど。

 やるせない思いでもう一度ため息をつく。
 全くやっていられない。自分の方が先にマリアに惚れていたのだ。それなのに、ひょいと突然現れた男に惚れた女をとられてしまうなんて。
 恋愛ごとを早い者勝ちだなんて主張するつもりは更々ない。だが嘆きたくもなるというものだ。自分は何ヶ月もかけて、それでも彼女の笑顔一つ引き出すことすら出来ないでいたというのに、目の前にいるこの男はあっという間にマリアの閉ざされた心の透き間に入り込んでしまったのだ。
作品名:花の名前7 作家名:maru