花の名前7
別に、二人の間に特に親密な空気を感じたとか、そう言うわけではない。だが、彼女の目を見れば分かる。その美しい翡翠色の瞳が、彼のことを心配でたまらないと言っていた。彼女を初めてみた日から今日まで、そんなふうに感情をあらわにするその瞳を目にするのは初めてのことだった。
だから思わずにはいられない。天におられる主はなんと不公平なのかと。全ての人類が平等だなんてみんな嘘っぱちだぜー彼は心の底からそう思った。
『ったく、マリアも涼しい顔してよく言うぜ。犬っころを拾ったなんてさ。子犬って言うにゃぁ、随分大きな拾いものじゃねぇか…』
口をついてでるのはそんな愚痴のような呟きだ。小さな声で、しかも早口だったものだから聞き取れなかったのだろう。その黒い瞳を瞬かせ、聞き返そうとした青年の先を征するようにして、
『あんた、名前は?』
短く問いを投げつける。不機嫌そうな表情を隠そうともせずに。
だが、そんなことは全く気にした様子もなく、青年は生真面目な英語で、その問いに答える。その声は、耳をふさいでしまいたくなるほどの騒がしさの中、不思議なくらい鮮明にボードウィルの耳へと響いた。
『一郎といいます』
そう言って、彼はにこりと笑う。
いい笑い顔だなと、素直にそう感じた。濁りのない、真っ直ぐな笑顔だと。見る人の心を不思議と和ませるような、胸が暖かくなるようなー
オレには出来ねぇよな、こんな顔は…そんなふうに思いながら再びマリアの方を盗み見る。マリアは気がつかない。ただ、一途な眼差しで、この一郎という青年の背中をじっと見つめていた。
なんて目をしてるんだよ…お前らしくもないー再びこみ上げた吐息を飲み込んでそっと天を仰ぐ。それからゆっくり視線を戻し、目の前の青年の顔を見上げた。ひるむことなく見返してくる澄んだ眼差しに、ボードウィルは思う。マリアはこいつの屈託のない笑顔や、こんな真っ直ぐな目に惚れちまったのかもなーそんなふうに。
『あんた、マリアとはどういう関係なんだ?』
唇をとがらせ尋ねた。その質問は彼にとって、よほど不意をつくような問いかけだったのだろう。
『マリア…と?』
きょとんとまん丸い目をしてそう言うと、彼はしばし下を向いて考え込んでしまう。その唇が開きかけ、また閉じてーそして、
『彼女は、恩人です。俺の。怪我をした俺を助けてくれた』
彼の口からでたのはそんな当たり障りのない言葉。嘘をつけとばかりに見上げたボードウィルの目の前で、二つの黒い瞳がそっとマリアの方を見た。そこでやっと、自分の方を心配そうに見守る彼女に気がついたのだろう。彼は何とも言えない表情をその面に浮かべ、そして微笑んだ。幸せそうなーだが、見ているこちらの胸が痛くなるような隠しきれない切なさを奥にひそめた、そんな顔をして。
そんな青年の横顔を、ボードウィルは頭をかきむしりたいような心境で見つめた。放っておけばいいのだと、理性ではそう考える。だがその反面で思うのだ。あんな顔見せられて放っておけるか、と。
『ったく、なんだってオレって奴は…』
思わず口をついてでたのはそんな言葉。吐息と共に青年の顔を見上げると、彼は少し首を傾げボードウィルの方を見ていた。その様子はまるで無防備で、マリアがこの青年を捕まえて子犬と表した意味が、何となく分かった気がした。
しょうがねぇなぁーボードウィルはかすかな苦みをはらんだ笑みを、その口元に浮かべる。もともと俺は犬・猫・子供、ついでに可愛い姉ちゃんにはめっぽう弱いんだーそんなことを思いながら。
『おい、お前…一郎だったか?』
『はい』
『ちょっとここに座ってな』
『え…?』
言うが早いか、立ち上がると、無理矢理のように一郎ー大神を椅子に座らせ、まるで子供にするように手の平でその頭を二度、軽くたたく。そして、面食らった大神が目を白黒させている間にテーブルとカウンターの間を一往復。戻ってきた彼の手には冷えたビールが二本、ちゃんと握られていた。
『ほら、飲めよ』
そう言って、二本のうちの一本を、彼は当然のことのように大神の方へと差し出した。一方大神は、困ったような顔をしてそれに答える。何しろ、まだ仕事の最中なのだ。さすがにアルコールを摂るわけにはいかないだろう。
『俺はまだ仕事がありますから…』
結構ですーそう言って断ろうとしたその言葉を、ボードウィルの声が遮り、
『平気だって。ボスにはちゃんと許可をもらってきたんだ』
そう言ってニッと笑う。とっさに振り向いた大神は、その視線の先でマスターがやれやれとばかりに肩をすくめるのをはっきりと見た。
怒っているわけではない、とは思う、たぶん…。きっと、ただ単に呆れているだけなのだろう。大神は何とも言えない表情をして再びボードウィルの方へと向き直る。彼はー
『な、平気だろ?』
言いながら、まるで悪気のない顔で笑った。そして大神の手を取ると、強引にビールの瓶を握らせた。
断らなければと思う。思うのだが…自他共に認めるお人好しの大神である。強く押されるとどうしてもうまく嫌だと言い出せない。しかも、相手に悪気がないとなれば尚更のこと。
そして案の定、断ることの出来なかった大神は、ボードウィルと差し向かいで酒を酌み交わすこととなってしまったのである。
ほんと、人のいい兄ちゃんだなぁーとはボードウィルが。
なんだか憎めない人だよなーはもちろん大神が思ったことである。
二人は酒を飲みながら、いろいろなことを話した。
お互いのことーちょっとした身の上話や、それからマリアの話も。
ボードウィルは、彼の知るマリアのことを大神に語ってくれた。アメリカに来てからの、彼女のこと。
『最初見たときは、怖いくらいに綺麗な顔した女だって、ただ単純にそう思った』
彼は懐かしそうに目を細めながら言った。
『だけど正直、綺麗だけど関わり合いにはなりたくないと思ったね。この女はやばいって感じたからな。氷みたいな冷たい目をして、いつもどこか遠くを見てた』
『それなのにどうして…?』
尋ねた大神を見て、ボードウィルは小さく笑う。
『一体どうしておれがマリアに惚れたのかって、言いたいんだろう?』
その言葉に、大神が小さく頷く。二つの黒い瞳が真面目な輝きを宿して真っ直ぐにボードウィルを見ていた。
そんな彼を見ながらボードウィルは気が付いている。いつの間にか自分が、この目の前の青年に確かな好意を抱きはじめているーその事実に。
ボードウィルは、そうだなぁーと考えるように天井を見上げる。そして、
『なんだかよ、ほっとけねぇなって、思っちまったんだよなぁ』
言いながら、少し照れくさそうに笑った。酒の力も手伝ってか、彼は小さな声でそっと大神に話してくれた。マリアには内緒だぜ?-そんなふうに言いながら。
『今にも凍えちまいそうで、見てられなかったんだよ。あいつがあんまりに一人すぎて、どうにかなっちまうんじゃないかって、思った。つい目が離せなくて目で追っかけているうちに、いつのまにかさ…』