花の名前7
惚れちまってたーそう言って彼は、子供みたいな顔をして笑った。大神はそんな彼をまぶしそうに見る。
彼は自分と同じだーそんな風に思う。自分もそうだったのだ。最初は彼女の厳しいまなざしに戸惑いと不安を覚えたものだ。自分は彼女とうまくやっていけるのかー彼女に認めてもらえるのか…と。だが、ともに戦い、同じ時間を過ごすうちに、その思いは少しづつ変化していった。そうして気が付いた時には彼女を誰よりも大切に思うようになっていた。
愛しくて、愛しくて、愛しくて…彼女の笑顔を見るだけで幸せな気持ちになれる。こんな想いを、一体どんな言葉にしたらいいのか。きっと言葉になどできない。きっと…
『お前はどうなんだ?』
『えっ…』
ふいに問われ、現実へと引き戻された大神は、顔を上げて目の前の男の顔を見た。
『オレにばっかり話させないでお前も言えよ。一郎、お前はどう思ってるんだ?』
『どうって…何を?』
いまいち質問の意味がつかみきれずに問い返す彼を見ながら、やれやれとばかりに肩をすくめるボードウィル。
『何とぼけてんだよ。マリアのことさ。決まってるだろ』
やっとのことで何を問われていたのかに気が付き、大神は軽く目を見張って目の前の男を見た。彼の顔に浮かぶのは何もかも承知だといわんばかりの人の悪い笑み。だが、その瞳だけは妙に真剣に、大神の顔を見つめていた。
一瞬、考えるように上を向く。ボードウィルは、黙って大神の答えを待っている。周囲の喧噪が、なんだか遠のいたような、そんな気がした。
『…マリアは…マリアは俺にとって、とても大切な人だよ。この世界の誰よりも、幸せでいてもらいたい人だ』
一言、一言噛み締めるようにーだが、一息にそう言い終えてから、大神は喉がひどく渇いていることに気が付いた。
きっと、緊張したせいだろう。のばした手にグラスを取り、それを一気に飲み干した。
『幸せでいてもらいたい人?幸せにしたい人の間違いじゃないのか?』
からかうようにボードウィル。そんな彼に、大神は微苦笑を返しー
『出来ることなら、俺の手で幸せにしたいと思う。でも、結局それは俺のエゴなんだ。彼女が幸せであればいい。たとえ彼女が俺以外の誰かの隣にあったとしても、彼女が笑っていられるのなら、それでいいと思うんだよ』
なんて、ただの強がりかもしれないけどねー大神は言った。そして再び、彼の黒い瞳は愛しい人の姿を求めるように店の奥を彷徨った。
どこまでもひたむきで真摯な眼差し。
ーきっとこいつなら、そうするんだろうな。
ボードウィルは思う。強がりーそんな風に言ってはいたけれど、彼の思いに、言葉に嘘は無い。そのことは、痛いくらいにボードウィルの心にも伝わった。
『そうかー』
頷いて、大神のグラスにビールを注いだ。飲もうぜ?ーそう言うと、大神も頷き、グラスを取る。なんだかとても酒を飲みたいーそんな気分だった。
朝が近付き、男達の馬鹿騒ぎの喧噪も遠のいた頃、ようやく酒場の営業終了の時間になった。
少し前からカウンターの向こうで片づけを始めていたマスターが手を休め、マリアを呼んだ。
ゆっくりと、彼の前に立つと、いつものごとく差し出される一晩の報酬。小さく頷き、それを受け取ると中身を確認した。
『確かに』
呟くようにそう言って、マリアはそれをコートのポケットへ無造作に仕舞いこんだ。
『いや、あんたが居てくれて助かってるからな。今晩も頼む』
『…あぁ』
『あと、こいつはー』
言いながら、彼は上着の隠しからもう一つの袋を取り出した。それをマリアの方へ突き出しながら、あご先で店の中央のテーブルを示す。そこには男が二人、突っ伏すようにして酔いつぶれていた。二人とも、マリアの知る人物だった。
『こいつはあの兄ちゃんの分だ。後半は役立たずだったが、前半は、まぁ、それなりに頑張ってたからな。明日も気が向いたら雇ってやると伝えといてくれ』
珍しく、にやりと相好を崩したしわ深い顔を見ながら、分かったーと短く答える。そしてそのまま、眠る大神のもとへと行きかけたが、ふと思い付いたように足を止めると、
『ボードウィルはどうする?』
そう尋ねていた。
『あのお調子者か。あいつは、まぁ、いつものことだからな。適当にその辺にでも転がしとくさ。起きたら勝手に出ていくだろう』
『そうかー』
マリアは頷き、
『それなら、私たちは先に帰る。片づけは手伝えないが…悪いな』
そんな、今までの彼女であれば決して言っていなかったであろう言葉を口にした。店主は少し驚いたような顔をしてマリアを見たが、すぐにその口元を笑いの形に歪めると、
『そんなことは気にせんでもいいさ。あんたの仕事に片づけ仕事までは含まれてないからな』
それよりも、あいつの面倒を見てやんなー優しげに目を細めた店主に頷き、マリアは大神のところへと向かう。耳元で声をかけると、彼はうっすらと目を開き、マリアの顔を見た。うれしそうにほころぶ顔。
『マリアー』
彼はこの上も無く幸せそうに、その名前を唇にのせた。
『…帰るわよ』
そう言うと、彼は、
『うん、分かった』
そう答え、たよりない仕草でテーブルに手をついて、どうにかこうにか立ち上がる。だが、酔いの抜けないその体は、いかにも危なげで、マリアは彼の腰に腕をまわすようにしてその体を支えた。
ドアを開ける。夜の世界から、明るく白みはじめた朝の世界へ。
ほんの少し、まぶしそうにその瞳を細め、マリアはゆっくり、ゆっくり歩いた。肩にかかる重みと、その息づかいと…心にかかるというほどでなく、かといってまるで気にならないわけでもない。不思議な違和感ー。
まだ朝も明けきらない、そんな時間。当然のことながら人影などほとんど無くーかすかな朝日に照らされる道に、マリアと大神、二人の影だけがほのかに揺れていた。