花の名前8
マリアが好きだ。強く、そう思う。彼女を思うことは幸せで、だがやはりどこか苦しい。辛いとは思わないけれど、胸が痛くてどうしようもないこともある。甘くて、切ない、それは、きっと恋の痛みだ。
遠くに、古ぼけた二階建ての建物。マリアの、いる場所。
少し乱れはじめた呼吸を整えながら、大神はさらに足を速める。だんだんと近付いてくる建物。そこは今の大神にとって、唯一帰るべき場所だった。
キッチンから聞こえる物音に眠りの底から意識が浮上する。
ゆっくりと目を開け、音のする方に目を向けた。そこにはたいして広くもない空間を所狭しと動き回る黒髪の青年の姿。
出会ってからまだ、ほんの数日しか経っていない。それなのにそんな彼の姿は、まるで最初からこの部屋の住人であったかのように、まるで違和感なくなじんで見えた。
まだ寝ぼけたままの瞳で彼の背中を追いかける。目が覚めきっていないせいなのか、頭の中に薄い幕がかかっているかのように、なんだかぼーっとしてはっきり物事が考えられない。彼の背を目で追いながら、こっちを振り向いてくれないだろうかー普段なら絶対に考えないようなことを思ってしまう。振り向いて、私を見て、こっちがつられて幸せになってしまうような、あの笑顔を見せてほしいー。
バカみたいだー天井を見上げ、小さく苦笑い。だんだんと目が覚めて来た。しかし、それでもまだ、体の芯が痺れたように熱っぽい。眠い訳ではないけれど、なんだかベッドから離れがたくて、マリアはもう一度目を閉じた。
そうしてそのまま、しばらく耳を澄ませていると、近付いてくる足音が聞こえた。起こさないように、静かに静かにーその優しい気配は彼のものだ。
「マリア?」
様子を窺うように彼の声。
「食事の準備、出来たよ。まだ、寝てるのかい?」
顔の上に影が落ち、彼がこちらを覗き込んでいるのが分かった。ちっとも眠くないのに、なぜか重い瞼を開けると、飛び込んで来たのは少し心配そうな彼の顔。そんな彼を安心させるように、マリアは唇を少し微笑ませ、ゆっくりと体を起こした。
「大丈夫。起きてる」
短く答えて立ち上がる。一瞬感じた目眩を無視してキッチンへ向かう。そこに用意されていた朝食は以外にしっかりしたもので、マリアは少し驚いたように目を見張った。
「どうだい。結構ちゃんとしたのが出来てるだろ?」
「料理、得意なのね」
そう言うと、大神は少し照れた顔をして、
「そうだね。胸を張って得意ですって言える程じゃないけど、料理をするのは結構好きなんだ」
食べてみて?ー大神の言葉に促されるように、マリアはふんわりと焼けているオムレツを口に運んだ。
「…おいしい」
思わず口をついて出たそんな言葉に、大神が笑う。心から嬉しそうに。
「良かったぁ」
そう、言いながら。
その、笑顔に目が奪われる。あまりに素直に自分の目が大神の姿を追うことに、マリアは軽い驚きを覚えていた。
今日の私はやはりなんだかおかしいーマリアは思う。思いはするものの、何故か思考回路が麻痺していて、うまく考えがまとまらない。なぜ?とか、どうして?とか、そういうことを考えるのが億劫だった。
そんな風にぼーっとまとまらない考え事をしていたせいか、不意に目の前に差し出されたそれがなんなのか、一瞬理解できずに瞬きを二回。
花、だった。よく見れば一目瞭然である。真っ白なー何の花なのか、名前は出てこなかったけれど、綺麗な花だと思った。
ただ、それが何故自分に向かって差し出されているのかが分からない。その理由を自分で考えるのが面倒だった。だから、答えを求める様に、それを持つ青年の顔を見る。
彼は真っ赤な顔をして、それでも真っ直ぐにマリアを見ていた。
「ー花屋で見つけたんだ」
それはそうだろう。花は、普通花屋に売っているものだ。マリアは頷く。
「綺麗だなって、思って」
鼻先に突き付けられたままの花を見ながら再び頷く。
「君にーマリアに似てるって、思った」
目を見開いて、彼を見た。
「そう思ったら、無性にこの花を君に持って帰りたくなった。俺が勝手にそう思ったんだ。いらなければ、そう言って?ーでも、もらってくれれば嬉しい」
無意識のうちに手が伸びていた。照れくさそうに、でも嬉しそうに大神が笑う。
かつて、そんな風にマリアを花にたとえた人が居た。その時彼が示したのは、今大神がくれた物とはまるで違う花。北の大地にひっそりと咲く、白い小さな花だった。
ーお前みたいだな。思わず、守ってやりたくなる。
そう言って笑った男の顔を、マリアは今でも覚えている。
彼は、もういない。
いくら探しても、求めても。でもー
手の中の花を見て、青年の顔を見る。
あの人とはまるで違う。髪の色も、瞳の色も、姿形も、その人種も。なのに重なるー時々、胸が苦しくなるくらいに。
怖いーと思った。目の前に居る、優しすぎるほどに優しい青年が。
何かが変わってしまいそうで。何もかもが、崩れ去ってしまいそうでー怖かった。けれど、その一方で、それを望む自分も居る。
拒む心と求める心ー二つの矛盾する思いが互いの存在を主張しあっていた。
目を、閉じる。真白の花を胸に抱く様にしながら。
「マリア?」
気づかうような青年の声ー
その声を聞きながら、マリアは、自分はこれからどうなってしまうのだろうか、と、ただそのことだけを考えていた。
その夜のマリアはどこか様子がおかしかった。
いつもの様に、酒場の隅のテーブルで店の中を見ているが、その瞳にいつもの覇気は感じられない。
大神は、彼女のことが心配で仕方が無かった。
具合が悪いなら休んだ方がいいと言ったのに、彼女は聞く耳を持たない。大丈夫の一点張りだ。
マリアの意地っ張りー給仕をしながら、視界の隅にいつも彼女の姿を映している。彼女はぼーっとどこか一点を見つめたまま、何か考え事をしているようだった。
ーやっぱり、今日は少し早くあがらせてもらえる様にマスターに頼んでみよう
そう思って、カウンターの方へきびすを返した瞬間、その声は聞こえた。
『よう、お嬢ちゃん。今日はやけにしおらしいじゃねぇか』
濁った響きのだみ声は、明らかに酔っていて、マリアに対する悪意をはっきりと感じさせている。反射的に大神は振り向いていた。
大きな体の男だった。重量はあるが太った感じは無い。彼は、軽い足取りでマリアの前に立つ。彼女を見下ろす男の目の奥に、強い負の感情を見たと思ったのは、決して大神の気のせいでは無いだろう。
マリアはけだるそうに顔を上げ、その男を見上げた。不快そうに細められる翡翠の瞳。
『どいて』
氷の様に冷たい声がそう告げた。
だが、彼女の目の前に立つ男は平気な顔だ。ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべたまま、変わらず彼女を見下ろしている。
『そう冷たくするなよ、ベイビー。たまには楽しく飲もうぜ。せっかくのきれいな顔が台無しじゃねぇか』
にやけた顔を彼女に近付け男が言った。
『お前と慣れあう気はない。早くどこかへ行きなさい。まだ、警告ですむうちにー』