花の名前8
睨み付けるようなその眼差しさえ受け流して、大きな手が彼女の手首をつかむ。
まずいなー大神は思う。
いつもの彼女なら大丈夫だろう。あんな男一人、どうとでもあしらえるに違いない。しかし今の彼女はー
必要ないって言われるかもしれないーでも…
心を決め、彼女の元へ行こうとした時、その肩をつかんで引き止める者が居た。
『待てよ、一郎。あの男はちょっとヤバいぜ』
驚いて振り向く。そこに居たのはあの陽気なアメリカ人のボードウィル。彼は妙に真剣な顔をして大神を見ていた。
『ヤバい?なら、よけいにマリアを一人にしておけないよ』
彼の手を振り切り、彼女の側に駆け付けようとした大神の肩を、ボードウィルはさらに強く引き戻す。
『待てって。本当にあいつはヤバいんだ。マリアだけなら平気さ。女には結構甘いやつだからな。だが、お前は駄目だ。男にゃマジで容赦ないんだ。しかも執念深い。殺られちまうぜ、お前』
彼は、本当に大神のことを心配してくれているようだった。大神はマジマジとボードウィルを見る。そしてにこりと笑った。
『ありがとう』
それに吃驚した様に、男が目を剥く様子がおかしかった。大神は微笑んだまま、肩にかかった男の手をそっと外した。
『心配してくれて、ありがとう。でも、俺は平気だよ。自分の身くらい、自分で守れるさ。それとも、俺はそんなに弱そうに見えるのかな』
そう見えるから忠告してんじゃねぇかーその言葉がボードウィルの口をついて出るよりも前に、大神は駆け出していた。誰よりも大切な少女の側に行くために。
ボードウィルは、あきれた様にその背を見送り、盛大なため息をつく。
『バッカヤロウ…』
決して小さくはない声での罵倒。しかしそんな彼の声も、今の大神の耳には届かないー
いい加減に、この目の前の男をどうにかしなければと思っていた。今までも、この酒場で何度か見たことのある男。いつもどこか遠くの席から、粘つくような視線をマリアに向けていた。
どうにかしないとーマリアは思う。だが、目にも、声にも、つかまれたままの腕にも…まるで思う様に力が入らない。体が鉛の様に重かった。
ほんの一瞬、マリアは目を閉じ、微かな吐息を漏らす。それはいつもの彼女なら決して考えられない行為だった。
だが、その瞬間ー手首に感じていた圧迫感が消えた。驚いて、目を開ける。
そこに、一郎が居た。
険しい顔をして、目の前の男を睨んでいる。その手は、男の手首をつかんで容赦なくひねり上げ、さっきまで余裕一杯に笑み崩れていた男の顔が、今度は苦痛に歪んでいた。
『少し、ふざけ過ぎだ。外で、酔いを醒まして来たらどうだい?』
いつもと変わらない柔らかな口調の中に、隠しきれない怒気を感じる。
彼は怒っているようだった。静かにーだか明らかな激しさで。それはマリアが初めて見る彼の一面だった。
『てめぇ…!』
荒れくれ男の口から、獣のような唸り声がもれる。
だが、それすらも何の威嚇にもならない。大神は平然とした顔で真っ赤な顔の男を見返している。
『おいおい、何遊んでんだよ、大将!!』
『そんなひょろひょろした若造、さっさとのしちまえ!!』
そんな周囲のヤジにも、男は唸り声で答える事しか出来なかった。
言われて出来る者ならさっさとやっている。それが出来ないからこうしてぶざまな姿をさらしているのだ。
さっきから何度もつかまれたままの腕を自由にしようと試みるのだが、青年はびくともしない。
そのすました横面に握った拳を叩き付けようとしたが、それすらも青年の手に止められてしまう。
男は、歯ぎしりをして大神を睨んだ。
大神は静かに、彼を見返す。その真っ直ぐに澄んだ眼差しに気圧された様に、男が一歩、後ろに足を引いた。
それを見逃さずに大神は再び男に警告を与える。
『今日はもう帰って欲しい。聞き分けてくれないか?手荒なまねは、したくない…』
そう言って大神は、男を見る目をまるで威嚇する様に細めた。
しばらくの間、そうして二人は睨み合いー先に根負けしたのは案の定大神に手をつかまれたままの男だった。
忌々しそうな舌打ちを漏らし、大神の手を振払う。
『覚えてやがれ』
そんな、三下の小悪党がよく使いそうな常套文句を捨て台詞に、その男は足音も荒く薄暗いバーの扉の向こうへと消えた。
大神はホッと息をつく。そうしてやっと、マリアの方を振り向いた。
ひどい、顔色だった。薄暗い店の照明の下でもはっきり分かるくらいに。
『よけいなことを…』
かすれた声で文句を言う彼女を無視して、大神は手を伸ばし、その額に触れる。
眉をひそめ、厳しい顔でマリアを見た。
『熱がある』
家に連れて帰らないとー大神はカウンターの向こうのマスターに目で問いかける。彼も彼女の様子には気が付いていたのだろう。小さな頷きで了解の意を大神に伝えた。
ほっとした様に微笑み、大神はマリアの方に向き直る。見ると押し当てられた大神の手もそのままに、マリアはぐったりと目を閉じている。
『マリア…?』
名前を呼ぶが、返事は無い。
大神はそれ以上無駄な時間を費やすこと無く、彼女のコートでその体を包み、そっと抱き上げる。
彼女が少しでも辛くない様に、苦しくない様にー大事に大事に抱きしめた。
真剣な瞳が、少し怒った様にマリアを見つめていた。
彼の腕が伸ばされ、大きな掌が額に触れる。
やめろ、と、その手を振払おうと思った。だが、その意に反して瞼が重くなる。彼の掌はひんやりと冷たく、とても気持ちが良かった。
目を、閉じる。
そうしてしまうと、なんだかもう一度目を開けるのが億劫になった。
『マリア…?』
不安そうに彼の声。
大丈夫と、そう伝えたいのに声にならない。意識が、途切れる。
最後に残った記憶は、優しくそっとまわされた彼の腕の感触ーただ、それだけ
目が覚めた時、マリアは暗闇の中でただ一人横になっていた。
ぼんやりと、暗い天井を見上げ、耳を澄ませてみる。
物音一つ聞こえない静寂。
彼はー一郎はどうやら、どこかに出かけているようだった。
と、その時。外へとつながるドアの向こうで何か物音がした。
彼が帰って来たのかと思った。
ベッドの上に半身を起こし、ドアの向こうに呼びかける。
『一郎?』
その瞬間、大して頑丈に出来ていない木製のドアが乱暴に蹴り開けられた。
『はずれだよ、お嬢ちゃん。残念だったな』
その向こうから現われた大きな体の男がにぃっと笑う。最悪の、相手だった。
両腕に荷物を抱え、大神は走っていた。薬やら、食料品やらを買い込んだ帰りだ。
あのショッピングモールには一晩中店を開けているところも少なくはない。それは昼間のうちに確認してあった。
マリアを連れ帰った後、大神は急いで買い出しに出ていたのだ。彼女の部屋には薬も、食料だって余分には買い置いてなかったから。
見るともう東の空がうっすらと白みはじめている。後少しで夜が明けるのだろう。