花の名前8
『来るさ。心底惚れた女のためだ。どんな手を使ってでもここまで来る。俺に殺されるためにな。だから、それまで死んでくれるなよ?お嬢ちゃんが死んじまったら楽しみが半減だ』
『来ないわ…来る訳、ない』
『あいつの見てる前であんたを犯し、あんたの目の前であいつをなぶり殺しにする。あんたも、あいつも、どんな顔をするのかーこれ以上の娯楽は無いぜ』
声を上げて男が笑った。
虚ろな表情のまま、マリアはぼんやりと前を見ている。そんな事になる訳は無い。彼はここに来ないのだから。
自分はここで死に、彼はじきに彼女を探す事を諦め、どこか、自分の故郷へ帰っていくのだ。
もう、考える事さえ辛かった。眠ってしまいたい。このまま、ずっと、永遠にー
不意に、銃声が響いた。遠くの方で。
閉じかけた目を見開く。男を見上げた。彼の顔に浮かぶのは、凶暴な歓喜。探し求めた獲物を見付けた肉食獣の様に、彼はその喜びを隠す事無くー
『来たぜ?あんたの騎士のお出ましだ』
『まさかー』
かすれた声がひび割れた唇から漏れる。
まさか、と言いながら、心はもう確信している。彼が、来てくれたと言う事をー
『マリア!!』
その声が響いた。
待ち望んでいた声だ。来るはず無いと思いながら、それでも待っていたー
顔を上げて、声の方を見た。
そこに、彼が居た。
黒曜石の瞳がマリアを認め、ほっとした様に細められる。
彼のそんな表情を目にした途端、不意に涙があふれた。何故だか分からない。ただ、胸が熱かった。
マリアの無事を確かめた彼は真っ直ぐな眼差しを、彼女の傍らに立つ男へと向けた。
『どんな魔法を使ったのか知らねぇが、よく一人でここまで来たな。ま、無傷とまでは行かなかったようだが』
言いながら、男は唇の端を笑いの形に歪める。その言葉に、ハッとして再び青年の姿へ目を向けた。脇腹の辺りが裂けて白いシャツを赤い血が鮮やかに染めあげている。
『マリアを、返してくれ』
『…返してやるさ』
ゆっくりと男が銃を構えた。大神は動かない。ただ静かな眼差しで男を見ていた。
『この俺様に勝てたらな』
大神は無言のまま、持っていた鉄パイプを構えた。それを見た男が笑う。大神の無謀さをあざ笑うかの様に。
『お前の獲物はその棒切れか?それで俺に勝てるとでも?』
『…勝つさ』
答えた彼の目が、ほんの一瞬マリアを見た。その瞳が、柔らかく微笑む。大丈夫だよと。マリアを、安心させる様に。
そして、戦いが始まる。
『ま、お前がそれでいいなら、俺は構わねぇがよ』
言うが早いか、男の拳銃が火を噴いた。瞬間、大神の腕が動く。構えた鉄パイプをわずかに動かし、飛んで来た銃弾を弾いた。そしてそのまま、男の驚いた顔を見もせずに地を駆ける。
予想外の事に動揺した男は、大して狙いも定めずに二発目、三発目と銃弾を放ってくる。それら全てを退け、大神は男の目前へと迫った。
鉄パイプを一閃させて、男の持つ銃を弾く。そして返す刀で容赦なくその巨体を打ち据えた。
ただの一撃だった。まるで容赦のない打撃に、男は地に倒れ伏す。そしてそのまま、彼は起き上がっては来なかった。
大神は目を閉じ、大きく息を吐き出す。己の勝利を神に感謝した。一歩間違えば、こうして地に沈んでいたのは自分であったのかもしれないのだから。
ゆっくりと目を開け、マリアを見る。毛布にくるまったまま、彼女は熱に潤んだ瞳で大神を見上げていた。
愛しいー誰よりも大切な少女。
大神は手を伸ばし、彼女の体をそっと抱き上げる。熱のある体は熱く火照って、その命を大神に伝えてくれた。
良かったー大神は思う。負けなくて良かったーと。彼女をこの手に取り戻す事が出来て、本当に。
『あなたは、馬鹿だ…』
かすれた、微かな声が耳をうつ。腕の中の、少女の体が震えていた。
『ーそうだね』
そう返して、大神はただ笑った。
『いいんだ、馬鹿で。そうじゃなかったら、君をこうして再び、腕の中に取り戻す事は出来なかったー』
だから、いいんだよーと大神は笑う。晴れ晴れと。
そして歩き出した。扉の向こうーおそらく疲れきった友が、待ちくたびれているだろう、その場所へー
薄暗いその部屋に、少女の静かな寝息だけがただ響いていた。
『良く、寝てるみてぇだな』
良かったーとボードウィルが呟く様に言った。それに大神は頷きで返し、静かに笑う。
もうじき朝が来るのだろう。カーテン越しの空がだんだんと明るくなっていくのが分かる。
男と男は静かに向かい合ったまま、朝が来るのを待っていた。
『ーもう朝だ。そろそろ俺は帰るぜ?』
『ああ…』
頷き、立ち上がる男を見上げる。
じゃあなーそう言って、立ち去ろうとした男の背中に大神は意を決した様に呼びかけた。
『待ってくれ』
不思議そうな顔で振り向くボードウィル。その顔をじっと真剣なまなざしで見つめ、
『頼みたい事が、あるんだー』
そう、切り出した。一瞬、怪訝そうな顔をしたものの、彼はすぐにいつもの表情をうかべ、
『…ま、俺で間に合う事なら、頼まれてやってもいいぜ?』
そう、頷いた。
ありがとうー大神は目を、閉じる。
朝が近い。もうすぐ夜明けだ。新しい一日がまたやってくる。残された時間は、きっと後わずかー
目を開け、目の前に立つ友人を見た。普通に生活していたなら、決して出会う事も無かっただろう。
彼が好きだった。優しくて、曲がった事が嫌いでお人好しー何より、マリアの事を大事に思っていてくれる。彼ならきっとー
『マリアを、頼むよー』
万感の想いを込めて、微笑んだ。ボードウィルが、信じられない事を聞いた様に目を見開く。
『何、言ってんだよ!?お前…お前はマリアが好きなんだろ?』
『ああ…とてもね』
『なら、なんで!?好きな女だろう?お前が捕まえとけよ!他の男に頼むなんて言うな。お前がその手で、守ってやればいいじゃねぇか!!』
『…そうだな』
そう出来ればいい。けれどー
『聞いてくれ、ボードウィル。そして信じてほしい。俺はもうここには居られない。もうすぐ、この時代から居なくなるんだー』
そして大神は全ての事情を語った。ここに到るまでの、全ての事をー
いつの間にか部屋はすっかり明るく、朝日の中に照らし出されていた。
大神は眠る事無く、ただ一心に見つめている。ベッドに頬を押し当て、黒い瞳で真っ直ぐに。
マリアをー。誰よりも愛おしいたった一人の少女をー
もうすぐ彼女とは別れなくてはならないのかもしれない。けれど不思議と心は穏やかだった。
ボードウィルは、あの愛すべき友は、確かに約束してくれた。自分に出来る限りの事はしようと。大神の目を見て、大神の手を取ってー
たとえ大神が頼まなくても、彼はきっとマリアを見守っていてくれたに違いない。そんな事、分かってはいたけれどー彼の力強い誓いは、大神の心に深い安堵をもたらした。