花の名前8
マリアはまだ眠っているだろうか。それとも目を覚まし、もしかしたら大神の不在を不安に思っているのではないかー?
早く、早くー
大神の心は妙な焦燥感にかられていた。嫌な予感がした。何故だかとてもー
走って、走って…そうしてやっと、見なれた建物の前に着く。
休む間もなく階段を駆け上がり、大神は愕然とした。
マリアの部屋のドアが大きく開け放たれていた。
体中の血液が一瞬にして凍り付いた気がした。
部屋に駆け込んだ大神の目に映ったのは、悪夢のような現実ー
そこにマリアの姿は無い。
あるのはただ、乱れた寝台と、踏み荒らされた部屋の惨状。
大神は駆け出した。こんな時、助けてくれる相手を、今の大神は一人しか知らないー
バーのドアが、性急に、荒々しく叩かれるのを、ボードウィルは半ば眠りの中で聞いていた。
カウンターの向こうでマスターが動く気配。ドアの方へ向かう足音が聞こえる。
鍵を開ける音。
鈍い音をたてて、ドアが開く。
『ボードウィルは!?』
名前を呼ばれ、一気に眠気が覚める。その声は彼の知っている声だった。
顔を上げ、ドアの方を見る。
『一郎か?』
名前を呼ぶと、彼はほぼ中央のテーブルに居るボードウィルを見つけて駆け寄って来た。
『良かった。探したんだ』
彼は、心から安堵した様に言った。そして、真剣なまなざしでボードウィルを見つめ、
『頼む。助けてほしいー君しか、頼れる人がいないんだ』
そう、言った。
『…何が、あった?』
『…っ、マリアがー』
『あいつだー』
大神の話を聞いた後、彼はうめく様にそう言った。
『そんな無茶なことするやつ、俺の知ってる限りじゃあいつしかいねぇ』
『誰なんだ?』
『あいつさ。昨日の晩、マリアに絡んでたあの野郎だ』
ほんの一瞬、目を閉じる。聞くまでもなく、分かっていた気がした。マリアが攫われたと分かった瞬間、大神の脳裏に浮かんだのは昨夜の男の憎悪に満ちた顔だった。
『奴はもともと、マリアに執着してた。普段のマリアなら遅れをとるような男じゃないが。今はー』
『…どこだ?』
『ん?』
『どこに行けばマリアを助けられる?』
尋ねられ、ボードウィルは苦虫を噛潰したような顔をする。
『あー、そりゃあ俺もあいつのアジトのいくつかは知ってるさ。だが、そのどこにマリアが連れ込まれたかは…』
歯切れ悪く言う彼の言葉を遮る様に、もう一つの声が響いた。
『港の廃工場だ』
驚いた様に大神が声の主を見る。
『新しい女を手に入れた時、奴はほぼ間違いなくそこに連れ込む』
そう言って、無口な老店主は大神を見返した。
『マスター』
『いいのかよ?お得意さまだろ、あんな奴でも一応は』
からかう様にボードウィル。それに、マスターはにやりと笑って返し、
『いいさ。あの娘が居てくれないと、うちの店も困るんでな』
そんな彼の言葉に、大神は不意に目頭が熱くなる。
『ありがとう、ございますー』
深々と頭を下げた。
マリアはきっと気付いていない。
どんなに拒絶し、冷たく他人を遠ざけようとしてもーそれでもちゃんと彼女を見つめ、大切に思ってくれる人は居るのだ。
彼女に伝えてあげたい。閉ざしていた目をほんの少し開いてみれば、世界はこんなにも優しく、彼女を包み込んでいてくれるのだと言うことを。
だが、そのためにはー
大神は顔を上げ、真っ直ぐにマスターを見た。
その目に、大神の決意を見たのだろう。彼は頷き、言った。
『早く行ってやれ。お前なら、助けられるさ。俺の目は、こう見えて、意外に確かなんだぜ?』
強く、頷く。
助けなければ、彼女を。誰よりも愛おしい存在を。いつかまた、ここじゃないどこかで、再び彼女と出会うためにもー
もう一度頭を下げ、大神は駆け出す。もう、後ろは振り向かない。
『お、おい!待てよ!!俺も行く!お前一人じゃ無理だぜ』
その背を、バタバタとボードウィルが追いかけていく。
男達の目的は一つだ。大切な少女を、取り戻す事ーだだ、その事のみ。
『おい、これを貸してやる。持ってろ』
そう言って差し出された銃を見て首を振る。
『ありがとう。でも、それは君が使ってくれ、ボードウィル』
『お前はどうするんだ?武器なしで乗り込む気じゃないだろうな!?』
まさかー大神は笑う。いぶかしげなボードウィルの前で、辺りを見回し、手ごろなサイズの鉄パイプを手に取った。
手に握るにちょうどいい太さの、真っ直ぐな棒に、同じくその辺りにあったぼろ布を巻き付け、握りやすくする。
『うん、これでいい』
二、三度軽く振って、それを腰のベルトにさした。そんな彼を見て、ボードウィルが呆れたような声を上げる。
『まるでサムライだな』
『そうだよ。侍さ、俺は』
ボードウィルの言葉に答えて笑った。
そう、侍の様に己の信念をかけ、守るべき者のために戦うのだ。その、命さえかけてー
『行こう。彼女が待ってるー』
大神が見る先にあるのは、もう使われていない、古い工場。そこに、囚われの少女が居るはずだった。
ここで終わるのだろうかー
薄汚れた床に転がったまま、マリアはぼんやりとそんな事を思っていた。
手足に戒めは無い。だが今の彼女には、立ち上がって逃げるだけの体力すら残っていなかった。出来る事は、与えられた薄い毛布にくるまって寒さに震えている事だけ。そして、いずれ訪れるだろう自らの死を見つめている。
自分は、いずれ死ぬのだろう。あの男になぶり殺しにされるのか、あるいはこのまま放っておかれてもおそらくは緩慢な死が訪れる。助けは、無いー
脳裏に浮かぶのは、一人の青年の顔だ。優しく、どこまでもまっすぐなー。きっと彼は今頃必死になって探しているだろう。
だが、ここには辿り着けない。彼に、ここが分かる訳は無いのだ。
だから、助けは無い。待つだけ無駄ーなのに…
『待っている…?私は、彼をー』
かすれきった声で、呟く様に。
来る訳無い…来る訳無いのに、でもー
心から彼の姿が消える事は無い。いつの間に彼は、自分の中でこんなにも大きな存在になっていたのかー
彼を想うーそれだけで、心が暖かい。
もう一度会いたいと思った。彼の顔を見て、その声を聞いてーそうすれば、自分のこの不安定な気持ちもハッキリするに違いないと。
だけど、体が動かないのだ。逃げ出すだけの力など、どこを探しても残っていそうにない。
終わりなのだ。もう時期、全てが終わってしまうー
『おい』
濁っただみ声に、マリアはうっすらと目を開けた。
目の前の椅子に座った男はニヤニヤ笑いながらマリアの顔を覗き込んでいる。
『まだ、死ぬんじゃねぇぞ?もう時期、お前の愛しい男が助けに来てくれるさ。なぶり殺しにされると、分かっていながらな』
男の言葉に、マリア目を見開いた。信じられない事を聞いた様に。そして、彼を睨んだ。
『彼が、来るわけないー。待つだけ無駄だ。さっさと、私を殺せばいい』