出逢い
ずっとひとりだと思っていた。だから、ひとりでも生きていけると思っていた。
己の半身と出逢うまでは。
将来、宮田医院を継ぐと約束されていた司郎は小学校まで羽生蛇村で過ごしていたものの、卒業して以来は1度都会に移り中学は俗に言う名門の私立校へと進学し、高校と大学は一貫校へと進んだ。大学を出てからの研修期間を経て暫くして、故郷である羽生蛇村に戻ってきた。宮田医院を正式に継いだ彼はすぐに院長となった。まぁ、元々親からそうなるようになれと言われていたのだから当たり前と言えば当たり前なのだが。
司郎はこれまでの人生を全て医者になる為だけに費やしてきた。母からの期待を、それも異常なほど一身に背負わされて、勉学に勤しんだり医学の知識を詰め込んだりした。成績も常に上位の方をキープし、何事においてもただ「完璧」だけを目指していた。その為、様々な事を犠牲にしたしそして気が付けばそれ以外の事が疎かになっていた。例えば「人」について。
高校時代に付き合っていた彼女に別れ際、「冷たい人ね」と言われた事がある。司郎自身もそれは自覚していた。確かに自分は客観的に見て無表情、冷淡というイメージを受けるだろう。けれども、それをあまり気にしてはいなかった。無表情なのもましてや医者なんていちいち感情に左右されてはやっていけない職だし冷たいぐらいが丁度良いだろう。寧ろその方が都合が良かった。ただひとり、例外を除いて。
自分に生き別れの双子の兄がいる事は幼い頃に母から聞かされた事があった。まさか、自分に兄弟がいただなんて思いもしなかったが。それもそうだ。生まれてからすぐに互いにそれぞれの家に引き取られたのだから。
兄は「牧野慶」というらしい。小学校の時に一緒だったようなのだが言われてみればそんな名前の男の子がいたなとぼんやりとした記憶だけは残っていた。それに加えて、数年前の「牧野」の葬式の際にちらっと自分によく似たその名の少年がいたなという事ぐらいで顔や声、体、全てが朧げだった。それでも司郎は自分によく似た兄に興味を持っていた。基本的に自分は『人間』には興味がないが牧野には何故か惹かれていた。双子の定めとでも言うのだろうか。
牧野慶に一度会ってみたい。しかしそこまで考えて気が付く。それが自分の無表情や冷徹さだった。牧野に逢った時、自分はやはりいつものように無表情という分厚い仮面を自然と被ってしまうのだろうか。今の今まで、誰にも本当の感情を悟られず都合がいいと考えていたこの顔に今になって少し後悔を覚えた。牧野は、逢って自分の事をどう思うんだろう。らしくないなと考えても仕方ない。ここまで、顔もあやふやでほとんど見た事のない同然の相手に振り回されるなんて。
こうやって、元は身内の筈の双子の兄で悩んでいた時期もあったのだ。しかし、今まで本気で人を好きになった事がなかった宮田が初めて純粋に好意を抱いた瞬間だったのかもしれない。
司郎が院長を継いで暫くした頃から少し、牧野と接触するようになった。その主が村の行事や神代家に関してだったりするから好き嫌い関係なくとも話さなければいけない。家柄もある為、親しくまでとは言えないもののこれを機に自分の片割れの兄と話せる事を司郎は快く思っていた。村にまつわる話以外にもたまに他愛のない事を話せる機会も増えたのだから。しかし、当の牧野本人は司郎を見る度にどこか避けている気がしてならなかった。会話だって、他愛のない話なら確かに二言三言で終わってしまう。
きっと、この何も変化しない表情と冷たい物言いで誤解されているのだろう。司郎は歩きながら思う。だからと言って勿論、司郎本人は話している時は無意識なのだから自覚してはいないのだが。牧野と話す事自体、わりと好きなのに。もし、そう思われているのなら残念だ。
『冷たい人ね』、か。確かにそう思われても不思議じゃないのかもしれない――。だけど、他にどう思われようと牧野にだけはそういう風に誤解されたくはない。牧野にだけは自分をそういった目で見て欲しくなかった。
らしくない、後ろ向きな考えだなと自嘲気味に笑いがこぼれる。
でも、本当にそう思ったのだ。宮田という立場上、嫌われても仕方がないな、と半ば諦めかけていたが、自分の実の兄にだけは軽蔑されたくない、そう強く胸の内に感じていた。
***
午前の診察を一通り終えて昼に差し掛かったところで休憩時間を利用して司郎は気分転換も兼ねて外に出て、不入谷教会へと足を運ぶ事にした。理由は言うまでもなく、牧野に逢いたかったからだ。宮田医院と教会との距離は車で行けばそう遠くはない。病院の裏側に停めていた愛車のドアを開け、ハンドルを握りしめて、エンジンをかけ、車を走らせた。
***
教会に着き、車を適当な場所に停めてから扉を開け、入ってゆく。案の定、牧野は中で1人、掃除をしていた。雑巾を片手に窓を拭いている。求導師らしくきちんと分けて整えられた黒髪に黒い法衣に首からさげたマナ十字。そして、自分とよく似た――いや、瓜二つの顔。
振り返ると、司郎が来た事に気付いたらしい。警戒しているのか肩をビクッとさせたがその後、慌てて頭を下げてきた。司郎もそれに合わせて軽く会釈する。
「ああっ、宮田さん。いらしてたんですね…これは失礼しました」
「…いえ、今来たところなので別に気にしないでください」
牧野は雑巾掛けをしていた手を止めると、司郎の方へと歩んでいった。同じ顔とはいえやはり雰囲気は全くといっていいほど違う。自分はあんなに表情が豊かにコロコロ変われるわけでもないしそれに、あんなに穏やかに微笑めない。
双子とはいえ、中身は全くの別物なのだ。村の裏を牛耳っている、人殺しとあまり変わらない己と比べて牧野は周囲の人間からの人望が厚い。そして何より根の良さから老若男女、彼を好いていた。司郎はそんな兄が羨ましかった。
「あれ? 病院の方はどうされたんですか?」
「丁度今は休憩時間なので」
「はぁ…何かご用でも?」
「いえ、特には。強いて言えば貴方に逢いに来た、ですかね」
「……」
サラッとそう言ってやればポカンと口を開ける牧野。見れば、その表情はどこか熱っぽさも含んでいるようにも感じられた。瞳の辺りは水を張ったかの如く潤い、その視線の先はどことなく遠くを見つめているみたいだ。宮田をまるで透明人間かのようにすり抜けて、教会の扉の向こう側を見つめるている。けれども、普段の宮田にしては直球な言葉だったからそう反応されても無理はないだろう。敢えて深くは考えないようにした。ボーッとしていた牧野も、すぐに我に還ると「あ、立ち話もなんですから、よければ座ってください」と、長椅子へと座るように促された。司郎が長椅子に腰掛けると牧野も「隣、失礼します」と横に座った。
…近い距離。こんなにも近いのに沈黙ばかりが続く。
「…掃除はどのくらいからされていたんですか」
「あっ…えっと、30分前くらいからです。八尾さんから、外出してくるので代わりにお願いしますって頼まれて」
己の半身と出逢うまでは。
将来、宮田医院を継ぐと約束されていた司郎は小学校まで羽生蛇村で過ごしていたものの、卒業して以来は1度都会に移り中学は俗に言う名門の私立校へと進学し、高校と大学は一貫校へと進んだ。大学を出てからの研修期間を経て暫くして、故郷である羽生蛇村に戻ってきた。宮田医院を正式に継いだ彼はすぐに院長となった。まぁ、元々親からそうなるようになれと言われていたのだから当たり前と言えば当たり前なのだが。
司郎はこれまでの人生を全て医者になる為だけに費やしてきた。母からの期待を、それも異常なほど一身に背負わされて、勉学に勤しんだり医学の知識を詰め込んだりした。成績も常に上位の方をキープし、何事においてもただ「完璧」だけを目指していた。その為、様々な事を犠牲にしたしそして気が付けばそれ以外の事が疎かになっていた。例えば「人」について。
高校時代に付き合っていた彼女に別れ際、「冷たい人ね」と言われた事がある。司郎自身もそれは自覚していた。確かに自分は客観的に見て無表情、冷淡というイメージを受けるだろう。けれども、それをあまり気にしてはいなかった。無表情なのもましてや医者なんていちいち感情に左右されてはやっていけない職だし冷たいぐらいが丁度良いだろう。寧ろその方が都合が良かった。ただひとり、例外を除いて。
自分に生き別れの双子の兄がいる事は幼い頃に母から聞かされた事があった。まさか、自分に兄弟がいただなんて思いもしなかったが。それもそうだ。生まれてからすぐに互いにそれぞれの家に引き取られたのだから。
兄は「牧野慶」というらしい。小学校の時に一緒だったようなのだが言われてみればそんな名前の男の子がいたなとぼんやりとした記憶だけは残っていた。それに加えて、数年前の「牧野」の葬式の際にちらっと自分によく似たその名の少年がいたなという事ぐらいで顔や声、体、全てが朧げだった。それでも司郎は自分によく似た兄に興味を持っていた。基本的に自分は『人間』には興味がないが牧野には何故か惹かれていた。双子の定めとでも言うのだろうか。
牧野慶に一度会ってみたい。しかしそこまで考えて気が付く。それが自分の無表情や冷徹さだった。牧野に逢った時、自分はやはりいつものように無表情という分厚い仮面を自然と被ってしまうのだろうか。今の今まで、誰にも本当の感情を悟られず都合がいいと考えていたこの顔に今になって少し後悔を覚えた。牧野は、逢って自分の事をどう思うんだろう。らしくないなと考えても仕方ない。ここまで、顔もあやふやでほとんど見た事のない同然の相手に振り回されるなんて。
こうやって、元は身内の筈の双子の兄で悩んでいた時期もあったのだ。しかし、今まで本気で人を好きになった事がなかった宮田が初めて純粋に好意を抱いた瞬間だったのかもしれない。
司郎が院長を継いで暫くした頃から少し、牧野と接触するようになった。その主が村の行事や神代家に関してだったりするから好き嫌い関係なくとも話さなければいけない。家柄もある為、親しくまでとは言えないもののこれを機に自分の片割れの兄と話せる事を司郎は快く思っていた。村にまつわる話以外にもたまに他愛のない事を話せる機会も増えたのだから。しかし、当の牧野本人は司郎を見る度にどこか避けている気がしてならなかった。会話だって、他愛のない話なら確かに二言三言で終わってしまう。
きっと、この何も変化しない表情と冷たい物言いで誤解されているのだろう。司郎は歩きながら思う。だからと言って勿論、司郎本人は話している時は無意識なのだから自覚してはいないのだが。牧野と話す事自体、わりと好きなのに。もし、そう思われているのなら残念だ。
『冷たい人ね』、か。確かにそう思われても不思議じゃないのかもしれない――。だけど、他にどう思われようと牧野にだけはそういう風に誤解されたくはない。牧野にだけは自分をそういった目で見て欲しくなかった。
らしくない、後ろ向きな考えだなと自嘲気味に笑いがこぼれる。
でも、本当にそう思ったのだ。宮田という立場上、嫌われても仕方がないな、と半ば諦めかけていたが、自分の実の兄にだけは軽蔑されたくない、そう強く胸の内に感じていた。
***
午前の診察を一通り終えて昼に差し掛かったところで休憩時間を利用して司郎は気分転換も兼ねて外に出て、不入谷教会へと足を運ぶ事にした。理由は言うまでもなく、牧野に逢いたかったからだ。宮田医院と教会との距離は車で行けばそう遠くはない。病院の裏側に停めていた愛車のドアを開け、ハンドルを握りしめて、エンジンをかけ、車を走らせた。
***
教会に着き、車を適当な場所に停めてから扉を開け、入ってゆく。案の定、牧野は中で1人、掃除をしていた。雑巾を片手に窓を拭いている。求導師らしくきちんと分けて整えられた黒髪に黒い法衣に首からさげたマナ十字。そして、自分とよく似た――いや、瓜二つの顔。
振り返ると、司郎が来た事に気付いたらしい。警戒しているのか肩をビクッとさせたがその後、慌てて頭を下げてきた。司郎もそれに合わせて軽く会釈する。
「ああっ、宮田さん。いらしてたんですね…これは失礼しました」
「…いえ、今来たところなので別に気にしないでください」
牧野は雑巾掛けをしていた手を止めると、司郎の方へと歩んでいった。同じ顔とはいえやはり雰囲気は全くといっていいほど違う。自分はあんなに表情が豊かにコロコロ変われるわけでもないしそれに、あんなに穏やかに微笑めない。
双子とはいえ、中身は全くの別物なのだ。村の裏を牛耳っている、人殺しとあまり変わらない己と比べて牧野は周囲の人間からの人望が厚い。そして何より根の良さから老若男女、彼を好いていた。司郎はそんな兄が羨ましかった。
「あれ? 病院の方はどうされたんですか?」
「丁度今は休憩時間なので」
「はぁ…何かご用でも?」
「いえ、特には。強いて言えば貴方に逢いに来た、ですかね」
「……」
サラッとそう言ってやればポカンと口を開ける牧野。見れば、その表情はどこか熱っぽさも含んでいるようにも感じられた。瞳の辺りは水を張ったかの如く潤い、その視線の先はどことなく遠くを見つめているみたいだ。宮田をまるで透明人間かのようにすり抜けて、教会の扉の向こう側を見つめるている。けれども、普段の宮田にしては直球な言葉だったからそう反応されても無理はないだろう。敢えて深くは考えないようにした。ボーッとしていた牧野も、すぐに我に還ると「あ、立ち話もなんですから、よければ座ってください」と、長椅子へと座るように促された。司郎が長椅子に腰掛けると牧野も「隣、失礼します」と横に座った。
…近い距離。こんなにも近いのに沈黙ばかりが続く。
「…掃除はどのくらいからされていたんですか」
「あっ…えっと、30分前くらいからです。八尾さんから、外出してくるので代わりにお願いしますって頼まれて」