夏の日
***
「痛て」
靴の中に入り込んだ、小石――というには明らかに大きな違物感。下駄箱に手をつき片足立ちでスニーカーをひっくりかえすと、ころりと500円硬貨ほどの大きさの軽い金属片がころがりおちる。
緑色に鈍く光る、瓶入りサイダーの王冠蓋だった。
真昼の強い日差しが昇降口のむこうを真っ白に光らせ、蝉の声が降るようにうるさかった。気づけば俺は、悪友どもに向かって、声をはりあげていた。
「悪い。俺、用事思い出した」
***
灼けつくアスファルトを踏んで、校舎から少し離れた広い屋外プールに向かう。フェンスに足をかけ中を覗き込むと、水着姿の女子部員がただひとり、一番奥の競泳用コースを繰り返し往復している。夏休みまっただなかの自由登校日の午後。他に部員の姿はない。
エリザベータの泳ぐ姿は、眠るときでも止まらず一生泳ぎ続ける魚みたいだ。
まったく無駄のないかたちで、いつまでも疲れを知らないみたいに、たぶん陸上にいるときよりも、その動きはなめらかで速い。
ぼんやり眺めていると、長い髪をびっちり納めたゴム帽子の頭が水面から浮き上がった。ごついゴーグルごしにこちらを見て、色気も何もない学校指定の野暮ったい紺色水着のエリザは、大きくぶんぶんと手を振った。
瓶入りサイダーの王冠蓋を下駄箱に置いておくのは、子供の頃のふたりの、『集合』の合図。――まだ、お互い男も女もなく、双子の兄弟みたいにいつも一緒に駆け回っていた頃の決めごとだ。
制服のままプールサイドのベンチに腰掛ける俺の側に駆け寄って、ゴーグルと帽子をとったエリザが水滴をしたたらせながら笑う。
「ふふ。来た。まだ、通じたわね、合図」
水から上がったエリザは、さっきまでドリルみたいな勢いで泳いでいた生き物とはまるで別ものに見える。
ゆるくウェーブしてちいさな顔を覆う髪や、やわらかそうな曲線をまといはじめた体やらがまぶしく目を射て、俺は視線をななめに外す。
「なんか用か?」
「うん」
エリザがまっすぐ俺を見る。きりっとした意志の強そうな眉と、くるくるよく動く緑色の目だけが、幼い頃と変わらない。
「今日帰りにうちに寄れる?昔、借りっぱなしにしてたものとか、返そうと思って」
「ああ」
自然に距離をおくようになってからも、いつでも会える安心感から俺たちの部屋には互いの私物がごろごろしていた。
ポケットの中で転がるサイダーの蓋の、フチのギザギザをもてあそびながら、わざとなんでもない風に訊く。
「いつだっけ、引っ越し」
「来週」
「ふーん」
先月たったひとりの父親を亡くしたエリザが、ひきとられて行くという街の名前はなんといったか。それを聞いた日の夜更けに、こっそり地図で調べて、そのあまりの遠さに驚いたきり、思い出せない。
エリザが、不自然にならないギリギリの明るさで笑う。
「制服。可愛いのよ、新しい学校」
「は。なに女みてえなこと言ってんだよ」
「おんなですけど?」
「そうだっけか」
本当に話したいことは、きっと別にあった。
中学生の俺たちの、せいいっぱいのたわいない会話は、ぽつ、ぽつと途切れながら、表面上はあくまでものんきに、青空に吸われていく。
今日の続きが、ずっとこの先も続いていくんだと思っていた。
ゆるやかな変化を含みながら――例えば、初めて見たこいつの制服のスカートをからかった春や、赤い浴衣に目が離せなくなった夏、伸ばし始めた髪に思わず見蕩れて後ろ姿を眺めた秋や、借りたマフラーが部屋の中で妙に特別に見えた冬――そんな、ささやかな、けして不快ではない発見を繰り返しながら、このままゆっくりと、時間は進んでいくものだと、なんの疑いもなく信じていた。
俺は、スニーカーを脱ぎ靴下を丸めて放りなげた。
『え』とエリザが息を呑む気配がした。それを背中に感じながら、制服のままプールに飛び込む。
「ギル!?」
「うお!けっこう冷てえ」
ばしゃばしゃと水をかきわけプールを横切る。どまんなかの第三コースにたどり着いてから、壁を蹴ってクロールで泳いだ。 しばらくぽかんとしていたエリザが、おおきく口をあけて笑う。
「ばか!ほんと、真ん中、好きね」
あんなにすいすいとエリザを泳がせる水は、俺にはひどくつかみ所がなくて、がむしゃらに手足をばたつかせてもちっとも前に進めない。
制服のシャツとズボンが重くまとわりつく。もがく。なにかを振り切るように、50メートルのプールを何往復も、一心不乱に泳ぎ続けた。
「痛て」
靴の中に入り込んだ、小石――というには明らかに大きな違物感。下駄箱に手をつき片足立ちでスニーカーをひっくりかえすと、ころりと500円硬貨ほどの大きさの軽い金属片がころがりおちる。
緑色に鈍く光る、瓶入りサイダーの王冠蓋だった。
真昼の強い日差しが昇降口のむこうを真っ白に光らせ、蝉の声が降るようにうるさかった。気づけば俺は、悪友どもに向かって、声をはりあげていた。
「悪い。俺、用事思い出した」
***
灼けつくアスファルトを踏んで、校舎から少し離れた広い屋外プールに向かう。フェンスに足をかけ中を覗き込むと、水着姿の女子部員がただひとり、一番奥の競泳用コースを繰り返し往復している。夏休みまっただなかの自由登校日の午後。他に部員の姿はない。
エリザベータの泳ぐ姿は、眠るときでも止まらず一生泳ぎ続ける魚みたいだ。
まったく無駄のないかたちで、いつまでも疲れを知らないみたいに、たぶん陸上にいるときよりも、その動きはなめらかで速い。
ぼんやり眺めていると、長い髪をびっちり納めたゴム帽子の頭が水面から浮き上がった。ごついゴーグルごしにこちらを見て、色気も何もない学校指定の野暮ったい紺色水着のエリザは、大きくぶんぶんと手を振った。
瓶入りサイダーの王冠蓋を下駄箱に置いておくのは、子供の頃のふたりの、『集合』の合図。――まだ、お互い男も女もなく、双子の兄弟みたいにいつも一緒に駆け回っていた頃の決めごとだ。
制服のままプールサイドのベンチに腰掛ける俺の側に駆け寄って、ゴーグルと帽子をとったエリザが水滴をしたたらせながら笑う。
「ふふ。来た。まだ、通じたわね、合図」
水から上がったエリザは、さっきまでドリルみたいな勢いで泳いでいた生き物とはまるで別ものに見える。
ゆるくウェーブしてちいさな顔を覆う髪や、やわらかそうな曲線をまといはじめた体やらがまぶしく目を射て、俺は視線をななめに外す。
「なんか用か?」
「うん」
エリザがまっすぐ俺を見る。きりっとした意志の強そうな眉と、くるくるよく動く緑色の目だけが、幼い頃と変わらない。
「今日帰りにうちに寄れる?昔、借りっぱなしにしてたものとか、返そうと思って」
「ああ」
自然に距離をおくようになってからも、いつでも会える安心感から俺たちの部屋には互いの私物がごろごろしていた。
ポケットの中で転がるサイダーの蓋の、フチのギザギザをもてあそびながら、わざとなんでもない風に訊く。
「いつだっけ、引っ越し」
「来週」
「ふーん」
先月たったひとりの父親を亡くしたエリザが、ひきとられて行くという街の名前はなんといったか。それを聞いた日の夜更けに、こっそり地図で調べて、そのあまりの遠さに驚いたきり、思い出せない。
エリザが、不自然にならないギリギリの明るさで笑う。
「制服。可愛いのよ、新しい学校」
「は。なに女みてえなこと言ってんだよ」
「おんなですけど?」
「そうだっけか」
本当に話したいことは、きっと別にあった。
中学生の俺たちの、せいいっぱいのたわいない会話は、ぽつ、ぽつと途切れながら、表面上はあくまでものんきに、青空に吸われていく。
今日の続きが、ずっとこの先も続いていくんだと思っていた。
ゆるやかな変化を含みながら――例えば、初めて見たこいつの制服のスカートをからかった春や、赤い浴衣に目が離せなくなった夏、伸ばし始めた髪に思わず見蕩れて後ろ姿を眺めた秋や、借りたマフラーが部屋の中で妙に特別に見えた冬――そんな、ささやかな、けして不快ではない発見を繰り返しながら、このままゆっくりと、時間は進んでいくものだと、なんの疑いもなく信じていた。
俺は、スニーカーを脱ぎ靴下を丸めて放りなげた。
『え』とエリザが息を呑む気配がした。それを背中に感じながら、制服のままプールに飛び込む。
「ギル!?」
「うお!けっこう冷てえ」
ばしゃばしゃと水をかきわけプールを横切る。どまんなかの第三コースにたどり着いてから、壁を蹴ってクロールで泳いだ。 しばらくぽかんとしていたエリザが、おおきく口をあけて笑う。
「ばか!ほんと、真ん中、好きね」
あんなにすいすいとエリザを泳がせる水は、俺にはひどくつかみ所がなくて、がむしゃらに手足をばたつかせてもちっとも前に進めない。
制服のシャツとズボンが重くまとわりつく。もがく。なにかを振り切るように、50メートルのプールを何往復も、一心不乱に泳ぎ続けた。