夏の日
水面から無理矢理ひき上げた体は鉛のように重い。震える腕でプールサイドに這い上がり仰向けに寝転ぶと、かわいたバスタオルが降ってきた。
覗き込んできたエリザは、すでに制服に着替えていた。濡れて普段より色の濃くなった金の髪の、くるりとカールした毛先が鼻先すれすれを掠めた。
「フォームめちゃくちゃ」
「…るせー…」
ふかふかしたパイル地に顔を埋めゼイゼイ息を吐いていると、タオル越しに、エリザの手が触れた。俺の髪を犬かなにかのように拭く。
あまりに突然の接触に、心臓が大きく跳ねた。エリザのスカートのプリーツが頬をくすぐって、太ももが傍にあるのを感じた。動けなかった。タオルが地面に落ちて、びっしりはえそろった長い睫毛が間近に見えた。距離が。
近い。
濃い塩素の匂いに混じって、くちびるの、としか言いようのない味がした。
すこしだけ冷たくて、たよりないくらいに柔らかくて、ふれたことで余計不安になってしまうほど、儚かった。
驚くくらい近くで、綺麗な緑の瞳が、ほんの一瞬、言っていた。
『わたしたち、なにもかも、これからだったのに』
俺は動けなかった。わけもなく目頭が熱くなって、バスタオルを握って顔におしつけた。
そうだ。俺たちは、なにもかも、これからなんだと、思っていたんだ。
小学校のとき、急に低くなった自分の声が恥ずかしくて黙りこくって、喧嘩した。
徐々にひらいていく身長の差は、戸惑いから次第に密かな誇らしさにかわった。
いつも一緒にいることはなくなったかわりに、いっそう強く背中で意識しあう距離感が、『特別』なんだとくすぐったかった。
心地よかった。大切だった。急いで先に進めてしまいたくなんか、ないほどに。俺たちにはこれから先、もっともっと一緒の時間があるはずで、こんな風に、突然途切れてしまうなんて、考えた事もなかったんだ。
「…会いに行く」
仰向けに転がってタオルを顔に押し付けたまま、言う。エリザがひとつ息を吸って、囁くように答える。
「…遠いよ」
「知ってる。金、貯める」
「…うん」
「電話も、する」
「……うん」
あの時、声を詰まらせながら、頷いてくれたエリザがどんな顔をしていたのか、俺にはわからない。
きっと叶わないということは、どこかで知っていて、それでも頷いてみせたエリザは俺よりもずっと大人で、女だったのだろう。
青すぎる空には平和の象徴みたいな入道雲が浮かんでいた。蝉の声があんまりうるさすぎて、逆に世界は無音に似ていた。
なにもかもが輝く夏のまばゆい日差しの下。
俺たちは、ただ、どうしようもないくらい、子供だった。
end