錆声
伊作
「善法寺先生もあいかわらずですねぇ」
穏やかな年配の先生に全く嫌みのない笑顔で言われた時には流石に申し訳なさすぎて泣きたいくらいだった。しかしこればっかりはどうにもならない。気をつけるだとか、もうそんな次元ではないということは学生時代に嫌というほど思い知った。
「ちょっと手洗ってきます」
片付けをしないのは気がひけたが、手を出すとさらに被害を広げることも過去の数えきれない程の経験でいやというほど分かっているので何もできない。しかし、張本人が何もしないで突っ立っているのも肩身が狭いので、とりあえず逃げた。周りにいる人たちも、数年の付き合いともなればもうわかっているので何も言わずともテキパキと台の上を綺麗にしていく。きっとほんの少し時間を潰して戻れば、もう元通りのテーブルがあるだろう。
有難いやら情けないやら。そんなことを考えながら近くのトイレに向かうと、ちょうど前に入っていたらしい人が出ていくところだった。が、その見事な黒髪にはなんだか見覚えが、と思った次の瞬間、半ば無意識のうちに声がでていた。
「あれ? 仙蔵、だよね?」
「……伊作か?」
振り向いたのはやっぱり仙蔵で、驚きを隠せないといった表情でこちらを見ている。驚くのはこちらの方だ。長い付き合いだが、記憶の中の仙蔵はだいたいが余裕綽々といった顔をしていて驚いたような顔を見ることはそうなかった気がする。
「久しぶりだな、伊作。まさかお前に会うとは思わなくて驚いた」
「それはこっちの台詞だよ。僕だってまさか仙蔵とこんな所で会うなんて思わないし、びっくりしちゃった」
「しかしお前がここにいるなら、さっきの騒ぎはどうせお前だろう」
にやりと、仙蔵は今度こそ僕の記憶の中の仙蔵と全く同じ顔で笑った。
「騒ぎ?」
「ああ、グラスでも倒したのか大騒ぎだったな。あそこがお前のテーブルだろう? お前と飲みに行く度に巻き込まれたことを思いだしたよ」
「あー。……でも仙蔵はいっつも文次郎や留三郎に片付けさせてばっかりで手伝ったことなんて一度もなかったじゃないか」
「当たり前だ。私は飲みに行っただけであって、お前の尻拭いをしに行っていたわけではないからな」
正論とばかりに言い放った仙蔵に呆れるが、毎回騒ぎを起こしているのは自分なので何も言えない。
「まぁ、そんなことはどうでもいい。伊作、お前今暇か?」
「今!?」
「今だ。こんな所で飲んでいるくらいなら暇だろう? ちょうどいい。少し付き合え」
「でも仙蔵、誰かと一緒に来ているんじゃないの?」
「別に構わん。編集の奴らに断る暇もなく連れてこられて退屈でな。そろそろ抜け出そうと思っていたところだ。伊作の家で飲み直すぞ」
「いや、僕の部屋とか勝手に決められても。というか僕はまだ飲み会の続きが」
「お前の事情など知らん」
無駄な足掻きだとはわかっているが、それでも駄目元で言ってみた言葉はやはりというか、あっさりと一蹴された。
「行くぞ」
歩き出した仙蔵に、慌てて自分が先ほどまでいたテーブルに戻り、話が通じそうな先生に急用で帰る旨と謝罪を告げて後を追いかける。店を出ると、自然とため息が零れた。前を歩く仙蔵は昔と全く変わらない。何かを一度決めたならば、必ずそれを実行する。その決断力と手段を選ばない実行力は心底凄いと思うし、羨ましいと思ったことも一度や二度ではない。だがそう思えるのはあくまで自分が傍観者である場合だ。自分が当事者として巻き込まれてしまえば、それどころではない。半ば現実逃避でそんなことを考えていたが、目の前を歩いている仙蔵の指先が車のドアにかかったところで、はたと気づいた。
「ちょっ、仙蔵! 飲酒運転は駄目だよ!」
「平気だ。そこまで酔っていない」
「そういう問題じゃないでしょ!? 駄目なものは駄目だって。ほら歩こう」
そう言って仙蔵の腕を掴んで歩き出したら、嫌そうに振り払われた。けれど歩いてはくれるようだ。仙蔵の傍若無人の振る舞いには振り回されっぱなしだが、たまにこう素直とは言い難い態度ではあっても言ったことを受け入れられると、それまでの怒りがすっと消えていってしまう。仙蔵の気まぐれによく巻き込まれていた人間に言わせればそれも計算のうちらしいが。
どちらにしろ折角会った懐かしい友人だ。社会にでて多少は丸くなっているだろうし、昔話に花を咲かせるのも悪くない。何を話そうかと思いを巡らせながら家への道を二人で辿る。