錆声
文次郎
予想に反して、小平太は覚えていた。覚えているどころか、電話に出るなり、
「文次郎のほうから電話してくるなんて珍しいねー。どうしたの?」
と言い放った。
文次郎は第一声を何にするかでまず悩み、忘れられていたらなんと言うかでまた悩み、わけの分からない思考の後、半ば自棄で電話したというのに、小平太は数年のブランクをものともせずに、というよりもはじめからそんなもの無かったかのように電話に出てきた。
それは学生の頃に電話をした時の対応と寸分も違わず、まるで学生時代に戻ったかのような錯覚を文次郎に抱かせ、アルコールを摂取していた脳に軽い混乱をもたらした。
それと同時に学生時代の数多の懐かしい思い出が頭をよぎる。それは今から思えば―当時はどうだったかもう覚えてはいないが―楽しい思い出ばかりで、実は夢だったなんて使い古されたような陳腐なオチでもかまわないから学生時代に戻りたいなどという、普段の自分だったら思いつきもしないようなことまで考えてしまって、そんな自分に唖然とする。まるでコントロールのきかない自分に驚くばかりで、電話で何を話したのかは、ほとんど、というか小平太の第一声しか覚えていない。それに返事をしたかどうかもあやふやだ。
気がついたら、小平太が部屋にいた。
「なんか久しぶりだね、文次郎と会うの。前会ったのって卒業する前でしょ? 電話かかってきた時はびっくりしちゃった。でも文次郎住むとこ変えてなかったんだねー」
一人で喋り続ける小平太は、いるだけで場の空気を明るく、柔らかくする。学生時代、なぜか会うと必ず小競り合いになる同級生と小突きあっていた時や、普段は温厚な癖に怒ると恐ろしい同級生を激怒させてしまった時、そういう周りの人間がみんな遠巻きに眺めているような状況でも全く意に介せず、話しかけてきた。
その話の内容が、
「バレーしようぜ! バレー!!」
だった時には流石に驚いたが。
当時はもう少し場の雰囲気を読めるようになってほしいと思っていたが、小平太はこれでいいのかもしれない。
実際、学生時代にはその無邪気さにずいぶん助けられた。まさかこの年になってまで助けられるとは思わなかったが。
「覚えてたよ。文次郎、仙蔵、長次、留三郎、伊作」
懐かしい名だ。学生時代、用もないのに集まってはくだらないことばかりしていた。滑り止めで仕方なく入った大学だったが、あいつらと出会えたのは悪くなかった。
「馬鹿だなぁ、文次郎。忘れるわけないじゃん」
小平太にとってはきっと当たり前で何気ない一言。
そういう何気ない一言に学生時代からずっと救われているんだ、なんて悔しいから本人には絶対言ってやらないけれど。