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たままはなま
たままはなま
novelistID. 47362
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Hertbeat

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Heartbeat

セバスチャンが、僕の顔を覗き込んでいる。
いつものからかう表情は無く、こちらの様子を窺うように、静かな眼で。
僕は顔を背けるのも忘れて、あまりない距離からの視線を受け止めていた。
拍動が回数を上げていく。
血流の多さが、頬を紅く染め上げる。
想定したことも無かった情報が、僕の脳の回路を錯綜し、
思考を混乱させて、僕を一時的に凍りつかせてしまった。
唇には、まだ、少しひんやりとした柔らかな感触が残っている。
セバスチャンから受けた、キスの感触が。

うっかりというには、しっかりと意志を持ち過ぎていた。
単なる興味と誤魔化すには、深入りした質問だったかもしれない。
僕は、知りたかったから訊ねたまでではあったのだ。
それが危険な質問である可能性を考えなかったのは、確かに迂闊だったとはいえ。



セバスチャンが、長い廊下を歩いてくる。
背が高く、すらりとしていて、漆黒の髪の彼は、遠くからでも容易に見つける事が出来た。
長い脚を優雅に蹴りだして歩きながら、ジャケットをふわりと羽織り、
壁に凭れていた僕の前まで来ると、口を開いた。
「坊ちゃん、お待たせしてしまいましたね。」
ニコリと口角を上げて笑って見せる。
待たせていない事が分かっているのだ。
セバスチャンは、僕を待たせたことが無い。
正確には、待った気持ちになるほど待たせた事が無い。
時間に遅れても、5分と掛からず彼は来る。
僕は、安心して壁に凭れていればいいのだった。
「ああ。」
僕の答えは、いつも同じ。
それ以上は必要ない。
壁を離れて歩き出せば、一歩後ろに彼が従って来る。
体温に近い気配が僕を護る。
何も恐れる事はないのだった。

僕の両親は古い家系の資産家で、いくつかの事業をしていたのだが、
3年前に、古い家系ならではの裏の繋がりの者達の襲撃に合い、呆気なく死んだ。
使用人達と共に殺され、家ごと燃やされて、骨さえまともに残らなかった。
母の実の妹であるアンジェリーナ叔母様が、
主人を亡くして一人身だからと僕を引き取ってくれたのだけれど、
大きな総合病院の産婦人科医なので、当直の日、目の離せない患者を抱えている時は、
どうしても家に帰る事が出来ないという。
僕は別に構わないと言ったのだが、叔母は、
まだ10歳の僕を一人きりにするなど大反対、そんな事は出来ないと譲らない。
そして、同じ病院に勤めるセバスチャンに僕を預ける事を思い付いたのだ。
上司たる総合病院医院長の権限でこんな事を決められて、何とも気の毒な事ではあるが、
学生の頃は僕の家庭教師をしていた関係で、
長年の付き合いから僕の家の事情もよく分かっており、
叔母の自宅の近くに住んでいた事もあって、
自分がいない時に僕の事を任せる適任者として、彼を選んだのだった。
彼は高校、大学とスキップして医師になったので、
まだ年齢は若いけれど、形成外科医としての腕は非常に優秀であって、
他の病院から、彼の手術を受ける為に転院してくる患者もいるくらいであり、
非常に忙しい身の上だった。
そこを、自宅で出来る作業は持ち帰って構わないという特例を付ける事で、
叔母が都合のつかない時には、
夜間、セバスチャンに僕の子守りをさせる事が可能になった。

一人で住むには広すぎるマンションだが、
一室は、個人図書館かと思う様な量の蔵書の為に使われていたり、
別の一室は、紅茶の保管棚とティーセットのコレクションで埋まっていて、
広すぎて困る事はないようだった。
毎日をそこで過ごすわけでもないので、泊まる時だけ、ソファーを借りる気でいたのだが、
そういう訳にはいかないと、小さな部屋を宛がってくれた。
クローゼットの付いた部屋に、僕の為の机と椅子とベッドが運び込まれた。
他には何もない空間が、僕にはかえって居心地がよかった。
焼け落ちた屋敷の跡地に、以前と全く同じ作りの屋敷を再建したけれど、
事件の全容が解明されない間は、僕がそこに一人で住むのは危険過ぎるし、
帰ったからといって、何の感慨もない。
あの屋敷には、実際のところ何の愛着もありはしなのだ。
両親と、両親を知る者達が誰もいなくなってしまった中身の無い箱。
所用を頼まれ、出かけていたタナカだけは生き残ったけれど。
危険が無くても、広大さが虚しくて、まだ帰る気にはなれなさそうだった。
何れは、この部屋を出て屋敷に戻るが、今はまだ、猶予期間。
膝を抱えて、飛び上がれるだけの力を溜めるには、ここの方が居心地がいい。
セバスチャンは、仕事の合間に僕の家庭教師もしてくれるが、
基本的には、叔母様ほど干渉してこないので楽だし、
趣味の料理は、職業を間違えたのかという程の腕前で、
スイーツに至っては、まさに絶品と言えるものなのだった。
僕が経営している会社の製菓部門の開発者に、爪の垢を飲ませてやりたいと思う。
だから、月に7日前後程度の訪問を、僕はひそかに楽しみにしているのだった。

僕が10歳の時から始まったこの生活は、既に3年目に入る。
幾らこの手の事に疎い僕でも、もう、気にせずにはいられなくなってきていた。
容姿端麗、頭脳明晰、長身痩躯、品行方正、高収入。
これだけ揃った男に恋人の影が見えないのは、僕が邪魔をしているのではないかと。
無論、僕がここに来ない日の方が多いのだから、
恋人と会ったりする時間がない訳でもあるまいとは思うが、
叔母の話によると、院内の女医、女性看護師から誘いがあっても、
相手の期待するところまでは付き合わないのだという。
数人での飲食など、当たり障りのない程度だそうだ。
そこがまたいいと熱を上げる者も多数だと聞いたのだけれど。
セバスチャンのマンションにも、親しい女性がいそうな気配を感じさせるものは、
はっきり言って、何一つない。
几帳面な性格の彼らしく、いつでもきちんと整えられていて、
どうかすると、生活感さえ薄いくらいだ。
キッチン、洗面台、バスルーム。
そういうところには、女性の存在の痕跡が残りやすいとは、叔母の言葉だが、
本当に、きれいさっぱり、影も形もない。
こんな事で大丈夫なのだろうかと心配になる。
妙齢の男が、恋人の影も見えないとは。
もしも、僕がここに来る所為だったら・・・。
そろそろ、この居心地の良さを手放す時なのかもしれない。
ただ、元家庭教師だっただけなのに、僕の事を迷惑とも言わずにいてくれた。
付き合いの長い間柄の僕には辛辣な口はきくけれど、
好き嫌いの多い僕の為に、嫌いなものでも食べやすいように調理を工夫してくれたり、
話のついでに言った、気に入ったスイーツのレシピを調べて作ってくれたりと、
ちゃんと気を使ってくれているのを知っている。
これ以上、甘えてはいけない。
セバスチャンのマンションから引き揚げて、
誰か、個人的に警護をしてくれるものを探そう。
会社の警備を依頼しているところに、そんなサービスがあった気がした。
アン叔母様の家にその手の人間を入れるのは、色々あって面倒だ。
ホテルに泊まるか、マンションを借りるかしよう。
もっと早く、その事に気が付くべきだった。



今日も、セバスチャンは時間通りに医局のドアから姿を現した。
この姿を見るのも、あと数回あるかないかだ。
作品名:Hertbeat 作家名:たままはなま