Hertbeat
家令のタナカは、ああ見えて仕事は的確で早い。
明日の朝、セバスチャンの所を引き払う為の指示を出しておけば、
来週までにはいくつかの選択肢を提示してくるだろう。
契約等の手続きを終えるまでは、2週間も掛かりはしない。
その間の叔母の当直は、数回くらいだろうから。
セバスチャンは、いつものように僕の所へ真っ直ぐに歩いてくる。
黒い髪を揺らし、優雅な足取りで。
誰もが見惚れずにいられない、この美しい男を、僕が縛り付けてしまっていた。
申し訳ない事をしていたものだと思う。
もっと、 別の時間を過ごせただろうに。
想う人と過ごすというのは、僕には、まだどんなものかは分からないのだが、
心が落ち着いて、楽しいものなのだろう。
医者として激務をこなすセバスチャンには、そういう時間は掛け替えのないものの筈。
費やしてしまった時間を返す事は出来ないが、
これからの時間を、無駄にさせない事なら出来る。
あと数歩近づいたら、セバスチャンは、いつものように笑う。
いつものやり取りをする前に、言った方がいいだろうか。
セバスチャンが近付く僅かな間、僕は悩んだ。
「お待ちになりましたか?」
にこやかな笑顔に問われて、僕は言う言葉を失った。
「いや。」
いつもと同じそっけなさで答え、いつもと同じように歩き出す。
いつも通りに、背中にセバスチャンの気配。
だが、今日は少しだけ、居心地が悪かった。
終わりを、始めなければならないからだろう。
よく分からないが、僕は珍しく感傷的になっていたのかも知れない。
そうでなければ、あんな質問をしたりはしなかったに違いない。
あんな、恋人がいるのかどうかなど。
何かは分からないが、自分に対する制御を失っていたのだと思う。
浮かんだ疑問を、疑問のままにしておく気になれなかった。
そして、声に出して訊ねてしまったのだ。
セバスチャンは暫くの沈黙のあと、言葉で答える代りに、僕にキスをした。
ヒンヤリとした唇を寄せて来て、触れて、少しだけ、僕の唇を食んだ。
全くの不意打ち。
予想外、想定外、想像外。
暫く途方に暮れていた僕だった。
酷い悪戯を思い付いたものだと罵ってやろうと、
僕から距離を取ったセバスチャンの目を見て、また、途方に暮れた。
そこには、からかう気など欠片ほども持ち合わせていない、
寧ろ、余裕が無いくらいに真摯に僕を見詰めている目があったから。
信号が青になり、セバスチャンは車を静かに発進させた。
無言で車を走らせる彼の横顔を、僕はまともに見る事が出来ない。
けれどその、僅かな濁りも無い水が溢れてくるような佇まいに、
どうしても視線が引き寄せられて、顔は正面を向いたまま、
ちらちらと端正な彼の顔を盗み見ていた。
「少し、寄り道をしても構いませんか?」
もうじき、彼の自宅マンションという所で、セバスチャンが言った。
心臓が痛いくらいギュッと収縮したが、出来る限り冷静ないつもの顔と声で答えた。
「ああ。」
返事とも言えない短い発音が、何と苦しい事だろう。
昼間は小さな子供達と保護者、近隣の高齢者が集い賑やかな広い公園の駐車場に、
吸い込まれるように入って車を止め、エンジンを切った。
「外の空気を吸いましょう。」
そう言って車を降りるセバスチャンに従って、僕も車を降りた。
ヘッドライトが消え、街灯だけになると、
暗い空に小さな星が散らばっているのが見える。
医局前の廊下を歩く時とは逆に、今はセバスチャンが僕の前を歩いて行く。
駐車場の傍にあるベンチまで行くと、僕に腰掛けるよう勧め、自分も腰掛けた。
僕とセバスチャンの距離は、小さな子供一人分。
普段なら、もっと近くに座っていても気になる事などないのに、
なぜか、奇妙に緊張を覚えた。
そんな僕の表情に、セバスチャンがフッと笑う。
「坊ちゃん、ここ、皺が寄っていますよ。」
そう言って、細いけれど節のしっかりとした男らしい指で自分の眉間を撫でて見せた。
僕が慌てて眉間を撫でると、セバスチャンはくすくすと失笑を漏らした。
「笑うな!」
照れながらのそんな言葉に、さしたる効力は無い。
憮然とした僕を、セバスチャンは笑顔で見ているばかり。
「何なんだ!僕を嗤う為にここに連れて来たのか?!」
そう言うと、セバスチャンの顔から楽しげな笑みが消え、
車の中で見せた、あの、真剣な顔になった。
「坊ちゃんは、どうして私に恋人がいるかどうかをお聞きになられたのですか?」
聞かれるとは思ったが、やはり来た。
「好奇心だと言った。」
心臓が、また脈の回数を増やしていく。
「では、私がキスをした訳がお分かりになりますか?」
セバスチャンの唇の感触が、僕の唇の上に甦る。
ひんやりして、柔らかくて、適度な弾力があった。
頬どころか、耳まで熱くなっていくのが感じられる。
「知るか!」
そう以外、答えられなかった。
なぜなら、本当に、どうにも分からなかったのだ。
悪戯でないのはセバスチャンの表情から分かったが、
では、どういう訳かと問われると、分からないとしか言えない。
悪戯でないから真剣とは言えないし、真剣という事になると、それはつまり・・・。
かつて考えた事のない事柄に行き着く。
鼓動は、既に早鐘を打っている。
「坊ちゃん、お気づきになられませんでしたか?」
微笑するセバスチャンの口調は、幼子に対するようだった。
「気付くとは、何にだ?」
今の言い方は、失敗だ。
聞いてはならない事を聞かされてしまう。
もう、肋骨に響く程、心臓の拍動が激しくなっている。
これ以上心臓が膨張すれば、骨が折れてしまうのではないだろうか。
「キスは、お厭でしたか?」
僕を真っ直ぐに見据えるセバスチャンの瞳に、僕が映っている。
目を見開いて、答えに窮している。
けれど、嫌悪を感じている顔ではなかった。
驚いてはいるのだが、厭だと思っているようには見えない。
そうだ。キスされた時は吃驚したけれど、それだけだった。
厭ではなく、どちらかといえば、寧ろ、もっと・・・。
僕の眼が、セバスチャンの瞳の中で揺れている。
「・・・いや。」
僕は、居たたまれなさに顔を背けた。
嘘を吐く奴には、幾らでも嘘を吐けるが、
真摯に向けられた言葉に嘘で返す事は、僕には難しかった。
それは、相手がセバスチャンだからなのかもしれないが、そこには触れたくない。
「貴方以上に、私の心を占める方がいないからですよ。」
セバスチャンの唐突な言葉が、何に対するものか分からず、
僕は再び彼の瞳を覗く事になった。
「何の話だ?」
「私に恋人がいるように見えない理由です。」
思考が迷路を回りながら、必要なピースを拾い、繋ぎ合わせていく。
構成されていく正解は、僕の心臓を壊そうとするものだ。
これ以上踏み込んではならない、引き返せ。
僕のその指令を無視して、どんどん形が明確になっていく。
視界が歪んで見える。
水の膜が掛かっているらしい。
セバスチャンが、僕に両腕を差し出してきた。
すっぽりと僕を包み込む低めの体温。
目の前にあるこの温かさに、僕は捕らえられる。
体重を預けて行けば、腕の力を強めてきた。
「私が欲しいのは、坊ちゃんだけです。」
やはり、聞いてはならない事を聞いてしまった。
後悔などしていないが。